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旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (176) 「下川駅逓跡地」

下川駅跡と、その隣にある「下川町バスターミナル」の北側を抜けて、前方に T 字路が見えてきました。工事中っぽい建物が見えますが、これは現在「まちおこしセンター『コモレビ』」となっている建物でしょうか。

この交叉点は道道 330 号「下川停車場線」の起点だったようです。道道 330 号はここを左折して 0.2 km ほど走ると全線完走となる短い道道のひとつです。

下川郵便局の立地の謎

探しものもあったので、道道完走には拘らず(そもそも気づいていなかったという説も)ウロウロしていたところ……「下川郵便局」が見えてきました。

「下 川 郵 便 局」の文字は、俗に「郵政書体」と呼ばれる独特のフォントのものです。どことなく手書きの「レタリング」にも通じるものがある、凛とした美しいフォントですよね。何故このフォントを使わなくなったのか、もしかして公団ゴシックと似たような理由(描き手不足)があったのでしょうか……?

「下川郵便局」は駅(跡)からそれほど遠くないところですが、役場や病院、小学校よりは東に外れたところに位置しているように見えます。何故だろう……と思ったのですが、駅の南側・東側に木材加工工場がいくつか存在することがその理由かもしれませんね。郵便局を金融機関と考えた場合は、大口の客の存在も無視できなかった、ということかもしれません。

前方に「下川シャンツェ」が見えてきました。

下川駅跡から下川駅逓跡へ

ウロウロすること数分、再び「下川駅跡」に戻ってきてしまいました。

国道 239 号を少し北西に進んで、「町立下川病院」のある交叉点にやってきました。道道 101 号「下川愛別線」はこの交叉点が起点です。

ところで、この交叉点に気になるものが……

あれっ、「下川駅」の跡はディーゼルカーのあったところだった筈……と思ったのですが、よく見ると「下川駅逓」の跡地でした。この国道 239 号はおそらくこのあたりで最も古い道路のひとつで、ここから分岐する道道 101 号も下川町を開拓する際のベースラインになったと思われる道路ですので、その交叉点に駅逓があったとしても何ら不思議は無いかな、と思わせます。

燃料補給、無事完了

国道を左折して一瞬だけ道道 101 号に戻ります。

再び左折して道道 354 号「ペンケ下川停車場線」の末端区間を進んで……

国道沿いではなく役場前にガソリンスタンドがあったので、燃料を補給することにしました。今から思えば、郵便局のすぐ近くの国道沿いにもガソリンスタンドがあったんですけどね……。

722.6 km ほど走ったところで、トリップメーターをリセットします。

家を出てからの走行距離は 1,454 km と出ていますが、この後どれだけ距離が伸びることになるのでしょうか。この表示については、後にちょっと面白いことが起きた……筈です。

下川から幌内へ

密かな懸案だった燃料補給も無事済ませたので、あとは稚内に向かうだけです。道道 60 号「下川雄武線」を北に向かうことにしましょう。

ついに……ようやく?……名寄川を渡ります。

道道 60 号は「幌内越峠」で雄武町と接続しています。まっすぐ進むと雄武町幌内ですが、途中で右折して「上幌内越峠」を抜けることで、雄武町雄武に抜けることもできます。

「幌内」は道内のあちこちにありますが、このあたりの「幌内」は「雄武町幌内」を指す場合が多い、ということですね。

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (175) 「キハ 22 245 と キハ 22 237」

下川駅跡には、2 両の気動車が静態保存されています。

線路の前後には、線路とバラスト(敷石)をモチーフにしたと思しきデザインの石畳(でいいのかな)が敷設されています。

また、敷地と歩道の間には、森林鉄道をモチーフにしたと思しきベンチ(ですよね?)が。

下川には実際に森林鉄道があり、下川鉱山からの鉱石の輸送にも使用されていたのだそうです。

このカラーリングは?

静態保存されているのは「キハ 22 245」と「キハ 22 237」の 2 両で、いわゆる「首都圏色」(たらこ色)に緑色の細い帯を巻いたようなカラーリングになっています。この緑色の細い帯には記憶がないのですが、どこかで見たような気もするような……(実際に名寄本線をこのカラーリングで走っていたのであればすいません)。

名寄本線」と言えば、旧・国鉄の「本線」の中で全線が廃止された唯一のケースだったでしょうか(この「全線廃止」には色々と裏話もあったようですが)。ですので「JR」という印象はあまり無いのですが、1987 年 4 月に JR 北海道が発足してから、2 年後の 1989 年 5 月に廃止されていました。JR 時代が 2 年もあったというのはちょっと意外な感じがしますね……。

興部側の車輌が「キハ 22 245」です。ナンバーはかなり綺麗な状態なので、再塗装後にスプレーで吹き付けたとかでしょうか。今まで気にしたことが無かったのですが、「4」はこのように塗装されていたんでしょうか……?

さすがに幌は見当たらず

車輌の名寄側には腕木式信号機も見えます。

キハ 22 は両運転台の車輌なので、連結部側にも運転席があります。線路上に積もった雪を排除するスノープラウが見えますね。

車輌は連結されていますが、車輌間をつなぐ幌は見当たりません。

名寄側の車輌が「キハ 22 237」です。床下の艤装品にはサビが目立っていますが、まぁこれはしょうがないですよね……。

腕木式信号機

腕木式信号機」のところまでやってきました。線路の先にはログハウス風の小屋が見えますが、なんか信号機小屋のようで面白いですね(実際にはトイレとかでしょうか)。

腕木式信号機の根本には「転轍機」のようなレバーが見えますが、これが腕木を操作するレバーだったんでしょうか。腕木式信号機は、腕木を上下させて灯火の前の色つきレンズを切り替えることによって、色を変える仕組みでしたよね。

2 両の保存車両は実際にこのあたりを走っていた車輌だったのか、「JR 北海道」の銘板が残っていました。

利用状況

車輌の前後に階段があるほか、車輌の横にもプラットフォーム状の階段が用意されています。車輌の横にある階段はサイズが大きめなので、ちょっとしたステージのような使い方もできそうですね。

ところで、この車輌が実際にどのように「利用」されているかが皆目わからないままなんですが、どうやら車内は座席が取り払われて座敷のようになっているとのこと。簡易宿泊所としての使用が許可されているのかは良くわかりませんが、イベントの際の詰所などとして使用されるケースがあるとのこと。

踏切の警報機に「使用中止」とあったので焦ってしまいましたが、車輌自体は然るべき手続きを踏めば中に入ることができる……ということで良いのでしょうか。「乗り場」にはチェーンが張られていたので、若干の不安が残るのも事実ですが……。

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (174) 「名寄本線下川駅跡」

「しもかわ万里長城」の駐車場に戻ってきました。

残りの燃料が随分と減っています。苫小牧で満タンにしてから丸二日で 717 km ほど走っていたみたいなので、まぁ当然といえば当然なんですが……。

ただ面白いことに、残りの燃料で 225 km ほど走ることができる、と言っています。この概算表示は、確か直近 10 分ほどの走行距離と燃料消費量で算出している筈なので、今後も下川町に入ってからと同等のペースで走れば、あと 200 km 以上行けるよ、ということみたいです。

別の言い方をすれば、信号待ちが多くなる都市部や、どうしても速度を出せないツイスティーな山道なんかだと、現在の燃費ペースを維持することは難しいということですね。街中オンリーだとリッター 5 km とかも普通にありますからね……。

再び道道 101 号へ

「しもかわ万里長城」の駐車場を出ます。出入口にも長城風の敷石が埋め込まれていたんですね。

道路側からも「万里長城」の門と、巨大な Wi-Fi アンテナ(たぶん違う)が見えています。

道道 101 号まで戻ってきました。前方にはどことなく Windows XP を彷彿とさせる野原が見えていますが、牧草地かなにかでしょうか。スキー場のゲレンデのようにも見えてしまいますが……。

下川鉱山!

一直線の下り坂が見えてきました。道道 101 号「下川愛別線」は基線に沿った(あるいは直交した)道路なので、多少の高低差は力技でなんとかする構造のようです。

「桑の沢川」を渡ったところに、再び「五味温泉」の案内が出ていました。なるほど、ここを右折して南に向かっても「五味温泉」にたどり着けるんですね。

下川にもかつて鉱山(下川鉱山)がありましたが、1983 年に「休山」(事実上の「閉山」)になっていました。銅と硫化鉄、亜鉛などを算出していたみたいですね。休山後 33 年を経過しても未だに青看板に名前が健在なのは、あくまで「休山」であって「閉山」ではない、というアピールなんでしょうか……?

名寄本線下川駅跡

市街地に入り、あれ、こんなところにも「長城」があるのか……と思ったのですが、こちらは単なる残雪だったようです。

道道 101 号を右折して「ふるさと通り」という通りを東に向かうと……おや、これは……?

どうやらここが名寄本線の下川駅のあったところだったようです。本物の気動車 2 両が静態保存されていました。

列車ご利用のお願い

車輌の興部側、客用ドアのところに何か貼ってあるようですが……

「列車ご利用のお願い」とあります。「受付時間は、午後五時まで」とあり、「無料でご利用できます」とありますが、果たしてどのように利用するのか……? 古い車輌を簡易宿泊所として活用するケースはちょくちょく見かけますが、これもその一つだったのでしょうか?

車輌の隣には踏切の警報機がありましたが、こちらは「使用中止」とあります。これは警報機としての使用を中止したということ……ですよね?

下川シャンツェ

そして、よーく見ると警報機の後ろには「下川シャンツェ」の姿が。下川はスキージャンプの盛んなところで、伊藤有希やレジェンド葛西紀明などを輩出した町でもあるんですよね。

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (173) 「万里の長城・後編」

「さわやかトイレ」の前を通過して、広場のような場所に向かいます。

円形の広場の真ん中には「花時計」がありました。

広場から右手前のほう(西南西方向)を振り向くと、門が見えます。

万里長城 2000 m 達成記念

せっかくなので、一度門から外に出て、再度入場することにしましょう。

門には「万里長城」の額と……

この「万里の長城」が 2,000 m を達成した際に、中国の札幌総領事から贈られた?記念の石が埋め込まれていました。噂には聞いていましたが、「本家公認」という話は本当だったんですね……(笑)。

では、「万里の長城」の門をくぐって、再び広場に向かいましょう。

記念塔?

広場の中央には先程の「花時計」があって……

右手には、なにか巨大な Wi-Fi アクセスポイントみたいな建物が……。

こちらの建物、ちゃんと案内板もあったと思うのですが、うっかり記録するのを失念してしまい……。機会があれば再訪してチェックしたいです。

健土健牛

花時計の北側には体育館のような建物が見えます。Google マップによると、この建物は「下川町土間運動場(桜ヶ丘アリーナ)」とのこと。体育館ではなく、屋内型運動場のようですね。

手前に見える石碑には「健土健牛」と刻まれています。「出荷乳量一万トン達成記念」とのことで、なるほど下川は酪農も盛んなんですね。

では、そろそろ車に戻ることにしましょう。

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北海道のアイヌ語地名 (864) 「イチャンナイ川・ケナシポロ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イチャンナイ川

ichan-(un-)nay
鮭鱒の産卵場・(ある・)川
(典拠あり、類型多数)

稚内市宗谷村下増幌のあたりで増幌ましほろ川に合流する東支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「イチヤヌンナイ」という名前の川が描かれています。

永田地名解にもそれらしき記載を見つけられませんでしたが(見落としだったらすいません)、「竹四郎廻浦日記」に次のように記されていました。

 さて此処より川すじ少し上りて右の方 マサラマヽ、同じく少し上りて モナイ、また同じ方をしばし行て イチヤヌナイ、此処左りに又チトカヌシといへる突兀たる山有。又しばし又上りて同じく左りの方 ハンケヲムルシベツ、ヘンケヲムルシベツ、並びてケナシホロ、少し上りて二股に成、此処をホンマスホホと云よし。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.532-533 より引用)※ ルビは引用者による

明治時代の地形図では、「マシュポポイ」の支流として「マサラママ」「シユマテシカナイ」「ト?ラシナイ」「ヘツタラオマナイ」「イチヤンナイ」が描かれていましたが、いずれも河口から水源に向かって左側(東側)の支流です。「竹四郎廻浦日記」では「右の方」となっていますが、「辰手控」では「左」となっているので、左右を取り違えた可能性が高そうです。

「イチャンナイ」あるいは「イチヤヌンナイ」は ichan-(un-)nay で「鮭鱒の産卵場・(ある・)川」だと考えられます。明治時代の大縮尺の地形図には「エサンナイ」と描かれているものもあって一瞬焦りましたが、「イチャンナイ」を間違って伝わったものが記録されてしまった……ということだと思われます。

ケナシポロ川

kenas-poro(-nay?)?
川沿いの木原・大きな(・川?)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

稚内市宗谷村中増幌のあたりで増幌川に合流する東支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ケナシホロ」という名前の川が描かれています。

永田地名解にもそれらしき記載を見つけられませんでした。文章の使い回しも大概にせぇ、と思われるかもしれませんが……(汗)。「竹四郎廻浦日記」に「ケナシホロ」とあるのは、前項で引用した通りです(ついに手を抜いたか)。

kenas は、なんとなく意味は理解できるものの、意外と解釈に揺れがある語という印象があります。知里さんの「──小辞典」には次のようにありました。

kenas, -i ケなㇱ ①【H 北】川ばたの木原。 ②【シラヌカ】かんぼくの木原。 ③【クッシャロ】湿原; やち気のある野原(川ばたでなくとも,木が生えていなくとも)。④【ナヨロ】ふつうの原野。=nup. ⑤【チカブミ】木原; 木の生えた景色のよい所。 ⑥【K (ニイトイ)】ユリやギョージャニンニクなどの生えている多少やち気のある林野。 ⑦【K (シラウラ)】川沿いの林野。[<kene-us-i (ハンノキの・群生する・所)? ]
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.45-46 より引用)

kenas の「なんとなくわかるけど土地によって微妙にニュアンスが変わる」という点について、なんとなく微妙なニュアンスを掴んでいただけましたでしょうか(ぉぃ)。

「ポロケナシ」ではない理由は

「ケナシポロ」は kenas-poro になろうかと思われますが、何故 poro-kenas にならないのか……という疑問がどうしても出てきてしまいます。面白いことに全く同名の「ケナシポロ川」が幌延にもあり、山田秀三さんの旧著「北海道の川の名」に次のように記されていました。

ケナシ( kenash )という詞は、普通「川添の林」と訳されるが、土地によって「川から少し高くなった処」の意にも使うし、「知里小辞典」によれば名寄では原野、クッシャロでは湿原の意に使うともいう。アイヌ語には、このように土地によって意味の異る詞がときどきある。
山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.63 より引用)

ですよねー。もちろん続きがありまして……

 この地名はそのまま読めば Kenash-poro(ケナㇱ・大きい)であるがヌポロマポロ(・ナイ)と同様に「Kenash-poro-nai 原野(あるいは川端の林)・大きい・川」の下略ではなかったろうか。
山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.63 より引用)

あー。そうかその手があったか……と思えてきました。kenas-poro-nay あるいは kenas-poro-pet だったのが、-nay あるいは -pet が省略されたとすれば、kenas-poro という語順になるのも当然でしたね。

ということで、まずは kenas-poro(-nay?) で「川沿いの木原・大きな(・川?)」と考えて良いのではと思います。

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北海道のアイヌ語地名 (863) 「オンコロマナイ川・オイクショマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オンコロマナイ川

enkor-oma-nay??
鼻・そこに入る・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)

宗谷岬の西、「珊内さんない」と「宗谷」の間に「清浜」という地区がありますが、そこを流れる川の名前です。

ややこしい話ですが、「宗谷」と「宗谷岬」は 7 km ほど離れています。本来の so-ya は現在の「珊内さんない」のあたりで、現在「宗谷」(宗谷岬では無いほう)と呼ばれる一帯は wen-tomari と呼ばれていました。会所を珊内から宗谷に移転する際に so-ya という地名も引っ越してきたようですが、その後 so-ya が岬の名前として復活した……ということみたいです。

「オショロコマの川」説

「東西蝦夷山川地理取調図」には、「ソウヤ」から数えて 6 つ *北* に「ヲンコロマナイ」という川が描かれています(この「ソウヤ」は「宗谷岬」ではなく、現在の「宗谷」のことです)。

「再航蝦夷日誌」には次のように記されていました。

     ヲシヨロコマナイ
小川有。橋有。水浅し。此処も平山ニよりかかり樹木なし。牛蒡ごぼう、虎杖、鬯多く生たり。又海辺ニは海鼠多し。平磯にし而汐干る時は歩(行脱)に而皆海鼠、海草等を取りニ出る也。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 下巻吉川弘文館 p.128 より引用)

「ヲシヨロコマ」は「オショロコマ」のことなんでしょうか……? だとすれば osorkoma-nay で「オショロコマ・川」ということになりますが、知里さんの流儀で考えれば osorkomanay の間の何かが省略された形、ということになりますね。

「ヲンコロマナイ」という記録

一方で、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

    字マウシエンルン
     コタンバ
     ヒラツウ
     ヒリカタイ
     トマリホントナイ
     ヲ ハ ル
     ヲンコロマナイ
小流、幅五六間、歩行わたり。当時は夷家三軒(カワカント、トツフクシヤ、タヒランケ人別合十八人)有。往昔は拾余軒有しと聞り。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.308 より引用)

「東西蝦夷山川地理取調図」では「トマリヲホント」の隣が「ヲンコロマナイ」だったので、間に「ヲハル」が増えたという違いがありますが、「東西蝦夷──」も「竹四郎廻浦日記」も、どちらも「ヲンコロマナイ」で統一されています。

「オンコ」意訳説

永田地名解には、次のように記されていました。

Tomari ohonto    トマリ オホント     奥深キ澗
Raramani oma nai   ララマニ オマ ナイ   水松アル澤
Kinatunke oma nai  キナト゚ンケ オマ ナイ  シヤク草アル澤 此處ノ「シヤク」草ハ味美ナリト云フ

「東西蝦夷山川地理取調図」の「ヲンコロマナイ」は「トマリヲホント」と「キナトンフヲマナイ」の間に描かれていました。ですので永田方正は「オンコロマナイ川」のことを「ララマニオマナイ」だと考えた……ということになるのですが、「イチイ」のことを北海道の方言で「オンコ」と言い、アイヌ語では rarma-ni と呼ぶので……なるほど。「オンコロマナイ」の「オンコ」が北海道方言の「オンコ」ではないかと考えたのですね。

「鼻のところに入る川」説

「ヲンコロマナイ」と「ララマニオマナイ」の違いについては「オンコ意訳説」であっさりと解決したのですが、松浦武四郎の記録は「再航蝦夷日誌」を除いて「ヲンコロマナイ」で統一されています。

「再航蝦夷日誌」の「ヲシヨロコマナイ」という解をどう考えるべきかという話になるのですが、他の記録が軒並み「ヲンコロマナイ」であることを考えると、やはり誤記を疑いたくなります。

永田地名解の「オンコ意訳説」も面白い説ではあるのですが、それだったら素直に {rarma-ni}-oma-nay で「{オンコ}・そこにある・川」と呼ぶこともできるのでは……と考えたくなります。

「オンコロマナイ川」の河口近くを見ると、東側の宗谷丘陵が鼻のようにせり出していて、流路が大回りを余儀なくされていることがわかります。この地形から enkor-oma-nay で「鼻・そこに入る・川」と考えられないか……と思うのですが……。

オイクショマナイ川

u-e-kus-oma-nay??
互いに・頭(水源)・向こう側・そこにある・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)

日本最北のコンビニエンスストアである「セイコーマートみいそ店」のある富磯地区の南側、富磯小学校の少し南のあたりを流れる川の名前です。

明治時代の地形図を見ると、現在の「富磯川」の河口あたりに「リヤコン」と描かれていました。大正時代に測図された陸軍図を見ると、「利矢古丹」と描かれていて、「富磯」と改名される前は「利矢古丹」と呼ばれていたようです。riya-kotan で「越冬・集落」だったのでしょうね。

富磯川の南の「オイクショマナイ川」の河口あたりは、地名もそのまま「オイクショマナイ」だったようです。「オイクショマナイ川」と「富磯川」の間(小学校の北側)にも無名の川が流れていますが、この川は明治時代の地形図では「ポ?オイケシユマナイ」となっていました。

「東西蝦夷山川地理取調図」では「リヤコタン」の南隣に「モトマリ」とあり、その南隣が「ヌソヲイ」となっています。ただ「竹四郎廻浦日記」には、その間の川名も記録されていました。

     イキム子ルウクシ  小川
     ヌソヲヱ 小川
     ヲヱクシナイ 小川
     モイクシマナイ 小川
     モトマリ 〃
     リヤコタン
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.533 より引用)

「竹四郎廻浦日記」では「イキム子ルウクシ」の南隣が「マシホヽ」となっていますが、これは現在の「増幌川」のことだと考えて良さそうでしょうか。「イキム子ルウクシ」と「ヌソヲヱ」も「小川」となっていますが、これは何かの間違いかもしれません(「再航蝦夷日誌」を見た限りでは、川とは明記されていません)。

「河口で伏流する川」説

永田地名解には次のように記されていました。

O ikushoma nai   オ イクㇱョマ ナイ   川尻ノ水彼方ニ行ク川 沙中ヲ潜流シテ彼方ニ流ルル川ナリ
Pon oikushoma nai ポン ヲイクㇱョマ ナイ 川尻ノ水彼方ニ行ク小川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解国書刊行会 p.427 より引用)

うーん。o-i-kus-oma-nay で「河口・それの・向こう岸・そこにある・川」で、それを「河口で砂の下を潜る川」としたのでしょうけど……うーん。

「同じ水源で川ふたつ」という情報

「午手控」には次のように記されていました。

ヲエクシマナイ
 (本名)ヱクシマナイ。此川源一ツにして川口二ツに成る。モヱクシマナイ、ヲヱクシマナイと云より号し也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.411 より引用)

更に混迷の度合いを広げる情報が出てきました。「ヲクシマナイ」と「モクシマナイ」の水源が同一であると言うのですが、「モイクシマナイ」が「富磯川」と「オイクショマナイ川」の間の小流だと考えると、「水源が同じ」とは言えないと思うのですね。

「水源が向こう側にある川」説?

「イクショマナイ」を e-kus-oma-nay で「頭(水源)・向こう側・そこにある・川」と考えると、「水源が同一」という「午手控」の情報が活きてくるのですが、ただこれだと o- をどう解釈したものか、という問題が残ります。

仮に o- ではなく u- だったとすれば、u-e-kus-oma-nay で「互いに・頭(水源)・向こう側・そこにある・川」と解釈できたりしないでしょうか。

「水源が同一」とは言えないという問題は残りますが、「モイクシマナイ」を遡ると「オイクショマナイ川」の北支流と「富磯川」の南支流の間の鞍部のすぐ近くに出ることができます。

川名を読み解く際には「なぜ地元のアイヌはこのような名前を残したのか」を考えないといけないのですが、「『モイクシマナイ』を遡ったところで『オイクショマナイ川』の流域にしか出られないから気をつけるように」という戒めなのかなぁ、と考えた次第です。

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (172) 「万里の長城・前編」

「下川パンケ川」を渡って北に向って、見えてきたのがこちらです。

はい、下川町と言えば「万里の長城」です。前回は敢えてスルーしましたが、カントリーサインにも堂々とあしらわれています。

ということで、左折して「長城広場」に向かいます。道路の右側(=公園の外周)が「長城」になっていますが、駐車場の入口は普通に車で入れるようになっています(それは当然かと)。

長城に守られた駐車場

「長城」の中の駐車場ですが、ゲートなどがあるわけではなく、無料で駐車できます。

中はご覧の通りで、特に変わった点は見当たりません。奥のほうに建物が見えますね。

中にはこんな人も

ここは公園と道路の間の外周に「長城」が築かれています。この「長城」を構成している石には、それぞれ名前や居住地(と思われる)が刻まれているのですが、これは実際に石を積んだ人の名前、なんでしょうか。

サンプルをお目にかけますと、たとえばこんな感じです。名の知れた方だと思うので、モザイクかけなくても大丈夫ですよね……?

「夕張」「シュー」「パロ」「ダム」

ちょっと変わり種の石組みもあって、たとえばこれなんですが、左の方に「夕張」と刻まれているのが見えます。

よく見ると、「夕張」「シュー」「パロ」「ダム」と刻まれているんですよね。グループで 4 つの石を同日に並べて積んだ、ということなんでしょうか。

下川町開拓 100 年

これは石ではなくプレートのようですが、「下川町開拓 100 年」と記されています。そしてよく見ると右隣には「北海道地図」も見えますね(右側が見切れていますが)。

「長城」の石組みは道路側と駐車場側にそれぞれ存在して、その間が土塁になっています。本物の長城は石畳の印象があるのですが(実物を見たことは無いですが)、ここは草むしているようです。

トイレに求められる清涼感とは

駐車場の奥には、トンガリ屋根の瀟洒な建物が見えます。

建物の手前には「来城プレート」と第されたプレート類が飾られていました。2002 年度の小学 1 年生による手書きの文字が刻まれています。このプレートに文字を残した小学生も、2016 年の時点で成人してる筈なんですよね。

ちなみに、瀟洒な建物の正体は「さわやかトイレ」でした(隣は管理棟とかでしょうか)。人は何故トイレに清涼感を求めるのでしょう……(汗)。

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