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旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

北海道のアイヌ語地名 (899) 「神女徳岳」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

神女徳岳(かむいめとくだけ)

kamuy-metot??
神・山奥
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)

富良野市上富良野町の境界に「富良野岳」という山があるのですが、その頂上付近に「神女徳岳」という名前の一等三角点があります。「富良野岳」の旧称が「神女徳岳」だったのかな? と考えたくなりますが、そう単純な話でも無さそうです。

富良野岳」の旧称

松浦武四郎は「十勝越え」の際に「前富良野岳」と「富良野岳」の鞍部(標高 1,359 m)を越えたとされています。当該区間について、戊午日誌「東部登加智留宇知之誌」には次のように記されていました。

右の方
     ヲツチシバンザイウシベ
と云て、上尖りし山。此山のうしろはソラチの川に到るよし。又左りの方は、
     ヲツチシベンザイウシベ
と云て、是又右の方に培しての高山。頂は岩山にして、其つゞきビエ、べヽツ、チクベツ岳の方に連り、此間を号て、
     ルウチシ
と云たり。ルウチシは路をこゆると云儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.163 より引用)

松浦武四郎が通過した「鞍部」が「ルウチシ」で、これは ru-chis で「路・中くぼみ」と解釈できます。松浦武四郎旭川から十勝に向かっていたので、富良野岳は「左りの方」、すなわち「ヲツチシベンザイウシベ」だったことになります。

「ヲツチシベンザイウシベ」の意味するところですが、「ヲツチシ」は ok-chis で「うなじ・中くぼみ」となり、具体的には「」を意味すると考えられます。

「バンザイウシベ」と「ベンザイウシベ」の「バン」と「ベン」は、pankepenkepanpen で、それぞれ「川下側の」「川上側の」と考えられます。「ザイウシベ」は sa-e-us-pe で「前・頭(山頂)・ついている・もの」と言ったところでしょうか。

「カムイメトㇰヌプリ」という山名

松浦武四郎は「十勝越え」の際に意図的に「間違ったルート」を案内されたと見られ、松浦武四郎もそれを承知の上で記録していたと考えられるとのこと(このあたりの事情については「松浦武四郎選集 五」の p.53-57 に詳述されています)。

そのことが原因だったかどうかは不明ですが、明治時代の地形図には「ヲツチシベンザイウシベ」の名前は見当たりません。「十勝岳」は現在とほぼ同じ位置に描かれていて、南西の「上ホロカメットク山」の位置には「ペナクシホロカメトㇰヌプリ」と描かれていました。

そして、「十勝岳」と「ペナクシホロカメトㇰヌプリ」の間(の狭い場所)に「カムイメトㇰヌプリ」という山が描かれていました。どうやら一等三角点「かむいとく岳」の名前は、この「カムイメトㇰヌプリ」に由来すると考えられそうです。

「ホロカメットク」

「カムイメトㇰヌプリ」という山名は既に使われなくなって久しいですが、「ペナクシホロカメトㇰヌプリ」は「上ホロカメットク山」という名前で健在です(また南東に「パナクシホロカメトㇰヌプリ」という山が記録されていますが、これは現在「下ホロカメットク山」と呼ばれています)。

2014/2/23 の記事では「ホロカメットク」を horka-mem-etok?? ではないか……と考えてみましたが、今から思えばやはり無理があったかな、と思えます。問題は「メトㇰ」「メットク」「メトック」に該当する語が見当たらないというところなのですが……。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 上ホロカメットク山 1,887 ㍍ 南富良野町新得町との境界の山。アイヌ語「ホㇽカ・メトッ」で,さかさ川の山奥の意。
NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.337 より引用)

horka-metot で「U ターンする・山奥」と考えたのですね。鎌田正信さんもこの解釈を追認していたようで……

パナクシポロカメトックヌプリ
下ホロカメトック山(地理院・営林署図)
ペナクシポロカメトックヌプリ
上ホロカメトック山(地理院・営林署図)
 いずれも十勝川本流の水源にあって、十勝と空知の支庁界に位置している。
 パナ・クㇱ・ホㇽカ・メトッ・ヌプリ「pana-kus-horka-metot-nupuri 下手の方を・通る・後戻りする(川の)・山奥の・山」と解したいが、ホㇽカ・エトㇰ・ヌプリ「horka-etok-nupuri 後戻りする(川の)・水源」とも読める。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.127 より引用)

鎌田さんは道東の方なので、道東側から見た解釈(十勝川本流の水源)になっているのが面白いですね。そして metot だと「ク」の出どころが不明になるからか、etok の可能性を残しているのも面白いです。

「メットク川」

このように「メトㇰ」の解釈はややスッキリしない状態だったのですが、「カムイメトㇰヌプリ」という用例をあわせて検討することで新たな発見が無いか、ちょっと考えてみました。

……考えてみたのですが、これと言った発見が無く……(ぉぃ)。地形図を見てみると、十勝岳の東を「メットク川」「下メットク川」という川が流れていることがわかりました。ただ、どちらの川を遡ったところで「十勝岳」に辿り着くのが精一杯で、「上ホロカメットク山」という名前の由来と考えるのは厳しそうに思えます。

ただ、山の名前として horka(U ターンする)が出てくるのもかなり不自然です(horka は、川を遡るうちに方角が逆になってしまう「川」を指すのが一般的です)。

「カムイ」は何処に

ということで、「ホロカ」は川名由来ではないかと思われるのですが、そうすると「カムイメトㇰヌプリ」の「カムイ」はどこから出てきたのか……という点が問題になってきます。kamuy-kotan であれば「神様の村」ですが、これは「人が近づくべきではない場所」と解釈できます。

では「カムイメトㇰ」はどう考えれば良いのか……という話になりますが、kamuy-metot であれば「神・山奥」となり、「人が近づくべきではない山奥」と解釈できるでしょうか。kamuy-etok であれば「神・水源」となり、一見意味不明な感じもしますが、kamuy-wakka-etok だとすれば「神・水・水源」となります。

kamuy-wakka は「神・水」としましたが、より意図を汲み取るならば「魔・水」とすべきだ……という考え方もあります。見た目は清冽な水なのに、実際には毒性の物質が混入していて、飲用すると死に至るような水のことを kamuy-wakka と呼び怖れたとのこと。

この手の「ヤバい水」は火山活動の盛んなところに多く見られるのですが、上ホロカメットク山の西(富良野岳の北)には温泉が湧出しているところがいくつか存在するようです。

「メトㇰ」は「メトッ」だったか

ただ、horkakamuy のどちらにも etok(m)etok としてくっついた……と考えるのは、さすがに無理がありそうな気がします。ここはやはり horka-metotkamuy-metot と考えるのが自然に思えますし、もしかしたら「メトッ」が「メトㇰ」に誤読された……という可能性を考えたほうが良さそうに思えてきました。

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北海道のアイヌ語地名 (898) 「鹿越・厚平内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

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鹿越(しかごえ)

yuk-ru?
鹿・路
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

苫小牧東 IC の西北西、トキサタマップ川の源流部に存在する四等三角点の名前です。「鹿越」と言えば南富良野町の「鹿越」「東鹿越」が有名ですが、いえいえここは苫小牧で……。

富良野の「鹿越」は yuk-turasi-pet(「鹿・それに沿って登る・川」)を意訳したものだとされます。同じ考え方で近辺に yuk 系の地名(川名)が無いか探してみた所……ありました。それも困ったことに千歳市側に。

ママチ川の支流

更に困ったことには「東西蝦夷山川地理取調図」しかネタ元が見当たらない状態で……。「東西蝦夷──」によると、「マヽツブト」で千歳川に合流する川(→ママチ川)の上流に「ホンユクル」と「ホロユクル」という川が存在するとのこと。これらは pon-yuk-ruporo-yuk-ru で、「小・鹿・路」と「大・鹿・路」と読めます。

明治時代の地形図では、「ママチ川」が「ママツ川」になっていて、支流の「イケジリママチ川」との合流点よりも上流側(西側)では「フプ子ウシ」、更にその上流部では「マクフプ子ウシ」と「サンケフプ子ウシ」に分かれているように描かれています。

また南支流の「イケジリママチ川」は「イケシリママツ」とあり、「烏柵舞第一林道」沿いの支流が「ポンママツ」と描かれていました。

「東西蝦夷──」の記録を明治時代の地形図と照らし合わせると、「イケシリママツ」の上流部に「ホンユクル」と「ホロユクル」があったと捉えられます。

厳密には「ヲサヌシ」の支流として描かれているのですが、明治時代には現在の「柏陽五丁目」の西を流れる川が「オサーノシ」として認識されていたようなので、河川名の取り違えなどがあった可能性もあります。

「イケジリ」の検討

そもそも「イケジリママチ川」という川名自体に注意が必要で、明治時代に既に「イケシリママツ」と呼ばれていたことを考えると、「イケシリ」は池尻大橋ではなくアイヌ語由来と考えるべきだったかもしれません。上流部が pon-yuk-ruporo-yuk-ru と呼ばれていたとすると、「イケシリ」は yuk-ru であると考えてみるのも一興……じゃないや。一理あるかもしれません。

yuk-ruyuk-kus-ru で「鹿・通行する・路」だったとしたら、「ユクスル」と聞こえた可能性もありそうですし、訛りを逆補正するような感じで「イケシリ」になった……と言う可能性もあるんじゃないかなぁ、と考えてみました。

なぜ「鹿ユㇰ」は苫小牧に?

すっかり「イケジリママチ川」の話になってしまっていますが、ママチ川の支流の名前(に由来する地名?)が市境から 3 km 以上離れた苫小牧市に存在するのかは……何故なんでしょうね(ぉぃ)。

可能性は二つほど考えられるのですが、一つは「鹿に市境は無い」という考え方で、千歳と苫小牧の分水嶺を越えた鹿が、苫小牧市の「鹿越」のあたりを通っていた……というものです。

もう一つはお決まりの「川名がうっかり移転した」というものですが……この話はまた後ほど(ぉぃ)。

実はそもそも移転などしていなかった……という可能性が高くなったのですけどね。

厚平内(あっぺない)

ar-{pin-nay}?
もう一方の・{細く深い谷川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

植苗川の上流部沿い、標高 84.9 m の四等三角点の名前です。この三角点は千歳市との市境から 300 m ほどしか離れていません。

「アッペナイ」の位置を探る

大正時代に測図された「陸軍図」では、植苗川ではなく勇払川の流域の、現在「苫小牧市勇振取水場」の施設と思しき建物があるあたりが「アッペナイ」として描かれていました(神社もあったようです)。

少し時代を遡って明治時代の地形図を見てみると、勇払川ではなく植苗川の位置に「アッペナイ」と言う名前の川が描かれていました。……珍しくここまでは順調に来た印象がありますね。

更に時代を遡って「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみたところ……げげっ。なんと(問題の)ママチ川の上流部の名前として「アツヘナイ」と描かれています。明治時代の地形図では「サンケフプ子ウシ」と描かれている川に相当する可能性がありそうです。

「『東西蝦夷山川地理取調図』しか無い」のカラク

前項の「鹿越」で「困ったことには『東西蝦夷山川地理取調図』しかネタ元が見当たらない」と記していましたが、ようやくカラクリが見えてきました。戊午日誌「東西新道誌」には次のように記されていました。

またしばし上るや追々椴松の山に成りて、其処を
     クウシ
と云。是フフウシの詰りと思はる。また上りて右のかたに
     アツヘナイ
小川。是より二股になりて追々山さが(嵯峨)しくなり、タルマイの麓に成ると。
     ホンユフル
是右のかたに行、シコツ山の麓に到るよし。また
     ホロユフル
是タルマイの麓に到ると。両岸峨々たる高山也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.440 より引用)

そろそろ「あっ」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。やはり「東西蝦夷山川地理取調図」が「アツヘナイ」を「ママチ川上流部」に描いたのは間違いで、正しくは「ユブル」こと「勇払川(勇振川)」の右支流(北支流)だったと考えるべきだ、ということでしょう。「『東西蝦夷山川地理取調図』しかネタ元が見当たらない」のは当然の帰結だったと言えそうです。

「ユクル」と「ユフル」

そして「あっ、あっ」と言わずにおられないのが「ホンユフル」と「ホロユフル」で、これは「小さな勇振川」と「大きな勇振川」なのですが、巳手控には次のように記されていました。

○同所ユウル
 ホロナイ左   クウシナイ
 アツヘナイ右  ホンユクル左
 ホロユクル右
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 四」北海道出版企画センター p.304 より引用)

ああああっ。「東西蝦夷──」でママチ川の上流部の川として描かれていた川は、「アツヘナイ」だけではなく全て「ユブル」こと「勇振川」の支流だったのですね。そして「ホンユクル」「ホロユクル」は「ホンユフル」「ホロユフル」だった可能性が……。良く見ると「東西新道誌」にも

     クウシ
と云。是フフウシの詰りと思はる。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.440 より引用)

とあり、「フ」が「ク」に化けるケースがあることを示唆していました。

まとめ

そろそろまとめに入ろうと思うのですが、まず「鹿越」の元となったと思われる「ホンユクル」あるいは「ホロユクル」は、元々は「ホンユフル」「ホロユフル」だった可能性が高そうに思えてきました。

そもそも「ユブル」こと「勇振川」の解釈自体、類型に乏しく怪しい感じがするので、「ユブル」が実は「ユクル」だったとすら考えたくなります。


そして「アツヘナイ」は……ar-pe-nay で「もう一方の・水・川」あたりでしょうか。あるいは ar-pi-nay で「もう一方の・小石・川」かもしれませんし、ar-{pin-nay} で「もう一方の・{細く深い谷川}」とも読めそうです。

「ユブル」が松浦武四郎が言うように「湯」に関連する川名なのであれば「水の川」という川名に頷けるものがありますし、「美々川」の存在から「小石の川」という名前もありそうに思えます。ただ「勇払川」(勇振川)とともに台地を深く刻んでいるように見える地形から考えると、ar-{pin-nay} が「ありそうな感じ」がするんですよね。

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宗谷本線各駅停車 (41) 「北旭川・新旭川」

永山駅を出発した旭川行き 328D ですが、右側の少し離れたところに線路が見えてきました。

線路の向こう側は工業地帯のように見えます。貨車の車体部分を転用した物置?も見えますね。

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宗谷本線各駅停車 (40) 「北永山・永山」

328D は南比布駅を出発して、終点の旭川に向かいます。気がつけば途中の停車駅はあと 4 つ、時刻は 18:15 になっていました。

今更ですが、比布町上川盆地の北東部に位置しています。西隣は旭川市ですが、旭川市との間に「突哨山」が聳えています。町境を意識しやすい地形と言えそうです。

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宗谷本線各駅停車 (39) 「比布・南比布」

旭川行き 328D は北比布駅を出発しました。車窓からは相変わらず雄大大雪山の姿を眺めることができます。

比布町内の宗谷本線は、左右に鉄道林っぽい用地が確保されているように見えます。ただ「防風林」と呼ぶにはちょっと木が少ない印象も……。

比布駅(W34)

18:07 に 328D は比布駅に到着しました。2 面 2 線の構造で、進行方向左側(東側)の待避線側に駅舎があります。ホームは左側にあるので、なんとか駅名標を……と思ったのですが……

比布駅は現在の蘭留駅と似た構造ですが、千鳥式ホームでは無いという大きな違いがあります。1 番のりばの向かい側に 2 番のりばがあるので、ゆっくりと駅名標を撮影することができたのでした。

「本場の味」も無事確保に成功しました。

比布駅の駅舎は、このあたりでは珍しく JR 北海道の発足時には改築されず、2016 年 3 月に新駅舎の供用が開始されたとのこと。なんか雰囲気の良さそうな駅に見えますが、出来たてホヤホヤだったんですね。

名寄行き 331D

2 番のりばに名寄行きの 331D が入線してきました。列車交換を行う場合は 2 番のりばに名寄・稚内方面の列車が入線するようですが、列車交換を行わない場合はその限りでは無いとのこと。

名寄行きの 331D が一足先に出発しました。331D が一分早く出発するダイヤになっているようです。

2 番のりばと 1 番のりばの間は跨線橋で行き来する構造です。必ずしも全ての名寄・稚内方面の列車が 2 番のりばを使用しない(らしい)のは、列車によっては跨線橋を使用せずに乗降できるように 1 番のりばを使用している……のかと思ったのですが、どうなのでしょう。

「本場の味」へようこそ

328D は比布駅に 4 分停車した後、予定通りに比布駅を出発しました。跨線橋が見えますが……あっ!

なんと、こんなところにちゃっかりと「本場の味」が!

あと「旭川方面乗車口」の案内も見えるのですが、駅舎から離れた 2 番のりばから旭川方面の列車が発着するというのは、ちょっと不思議な感じがします。比布駅には 1 日 4 往復の折返し列車が設定されているのでその関係かもしれませんが、本線で折り返すというのもちょっと妙な感じが……。

跨線橋の謎

2 番のりばの南側にはホーム跡と思しき場所があり、駅名標が設置されていました。比布駅もかつては千鳥式ホームだったのかな……と想像してみたのですが、ちょっと妙なことがわかりました。

Wikipedia の「比布駅」には「1955年(昭和30年)1月31日:跨線橋完成」とあり、実際に 1963 年の航空写真には、現在と同じ位置・同じ向きに跨線橋が存在していることが確認できます。

ただ、1948 年に米軍によって撮影された空中写真を見ると、現在の位置よりもやや北側に、西側のホームの階段のみ逆向きに設置された跨線橋が存在しているように見えます。

比布駅もかつては千鳥式ホームだったんじゃないかという推測を裏付ける物証と言えそうですが、Wikipedia に「出典」として記載のある「広報ぴっぷ 2015 年 5 月号」には「(昭和)30 年 1 月 31 日には跨線橋が完成」と記されていて、びみょうにミスリーディングな感じを受けます(それまで存在していたと思しき跨線橋について記載が無い)。

まぁ「それが何やねん」と言われると、返す言葉が無い程度の話なんですけどね。

南比布駅(W33・2021/3/13 廃止)

比布駅を出発した 328D は、3 分ほどで次の「南比布駅」に到着しました。

南比布駅は 1955 年に仮乗降場として設置されて、4 年後の 1959 年には早くも駅に昇格しています。仮乗降場からスタートしたこともあり、ホームはウッドデッキ構造です。

南比布駅は、仮乗降場として設置されたのも駅に昇格したのも北比布駅と同時でしたが、2016 年には一日平均乗車人員が 10 名以下の「極端にご利用の少ない駅」にノミネートされていて、奇しくも北比布駅と同時の 2021 年 3 月に廃止されてしまいました。

北比布駅の一日平均乗車人員は「1 名以下」だったのに対して南比布駅は「10 名以下」で、北比布駅には一日 4 往復が停車していたのに対して南比布駅には 6 往復が停車するなどの違いはあったものの、最初から最後まで運命をともにした風に見えるのは面白いですね。

例によっておそろしくブレていますが、この駅舎の形も北比布駅とそっくりだったようです。

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宗谷本線各駅停車 (38) 「蘭留・北比布」

旭川行き 328D は塩狩峠を越えて下り勾配に差し掛かりました。標高 255 m ほどの塩狩峠から標高 184 m ほどの蘭留駅まで、右に左にカーブして距離を稼ぎながら駆け下ります。

気がつけば、あと 5 分で 18 時になろうとしていました。5 月なので比較的日は長いとは言え、日の出の早い北海道なので、日没まであまり余裕は無さそうな感じでしょうか。

標高 339 m の「蘭留山」の麓をぐるっと回りながら坂を下ります。このあたりは比布町の中では比較的涼しい所だからか、牧草地が広がっています。

宗谷本線・国道 40 号・道央道はいずれも塩狩峠を経由するのですが、この三者はほぼ同一地点で立体交叉しています。宗谷本線が一番下を通っているのですが、北海道の郊外でこの三者が一同に会するというのは割と珍しいのでは……。

蘭留駅(W36)

安全側線と本線が見えてきました。ということは 328D は待避線に入ったということになりますね。間もなく蘭留駅に到着です。

蘭留駅は 1 面 2 線の列車交換可能な構造で、塩狩駅と同じく構内踏切の手前にホームがある「千鳥式ホーム」です(他に保線車両用の引込線があるようです)。塩狩駅と違う点としては、駅舎が待避線側にあるため、待避線が 1 番線となっているところでしょうか。

ということで 1 番線側の「本場の味」を撮影しようと試みたのですが……タイミングが一瞬早すぎたようです。

この蘭留駅は塩狩峠の南麓の駅ということになりますが、蒸気機関車で峠越えをしていた時代はここで補助機関車(補機)の増解結を行っていたとのこと。駅の南側には転車台もあったそうですが、現在は転車台の跡地の上を「旭川紋別自動車道」が通っているみたいです。

1 番線側の「本場の味」の撮影には見事に失敗しましたが、2 番線(本線)側の「本場の味」を無事確保できました。

折角なのでトリミングしたものも。

このあたりの駅舎は JR 北海道が発足した直後(バブル経済真っ盛りの頃)に改築したケースが続いていますが、蘭留駅の駅舎も 1988 年に改築されたものとのこと。

蘭留駅の 2016 年時点の一日平均乗車人員は 10 名以下で、「極端にご利用の少ない駅」にもノミネートされてしまっていますが、駅の維持管理を比布町が引き継ぐ形で存続を勝ち取ったようです。

いつものことながらブレブレでしたね。すいません……。

北比布駅(W35・2021/3/13 廃止)

旭川行き 328D は蘭留駅を出発しました。左側の車窓には雪を戴いた大雪山の姿が!

蘭留駅を出発してから 3 分ほどで、北比布駅に到着です。和寒駅と塩狩駅の間が 7.9 km ほどあり、塩狩駅と蘭留駅の間も 5.6 km ほどありましたが、蘭留駅と北比布駅の間は 2.6 km しかありません。

北比布駅は 1955 年に仮乗降場として開設され、1959 年には早くも駅に昇格していました。ホームはおなじみのウッドデッキ構造で、有効長は 1 両分しか無かったとのこと。ディーゼルカーの導入に伴って開設されたものと思われますが、当時から単行が前提だったのですね。

比布町には道央道の「比布大雪 PA」がありますが、PA 名からもわかるように、平野の向こうに大雪山を一望できる素晴らしいロケーションの町です。もちろん北比布駅からもこんな風に!

大雪山を一望できる北比布駅でしたが、2016 年時点の一日平均乗車人員は「1 名以下」まで落ち込んでしまい、「極端にご利用の少ない駅」としてノミネートされてしまいます(宗谷本線では「1 名以下」の駅は 17 駅がリストアップされていますが、その中ではもっとも南に位置していました)。

比布町では町内の 4 駅のうち 3 駅の廃止を打診されたことになり、蘭留駅を町の維持管理とすることで存続させるのが精一杯……だったのかもしれません。北比布駅は 2014 年?に待合所を改築したばかりだったようですが、残念ながら 2021 年 3 月で廃止されてしまいました。

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宗谷本線各駅停車 (37) 「塩狩」

旭川行き 328D は和寒駅を出発しました。線路のすぐ近くを国道 40 号が通っていて、その向こうには学校の体育館のような形をした農業倉庫が並んでいるのが見えます。

和寒は米どころのようで、「JA 北ひびき」の「和寒ライスセンター」はなかなか熱いデザインのペイントがなされていました。それはともかく「北ひびき」という組織名?、周辺地域の JA が合併してできたネーミングだと思うのですが、今ひとつ由来が良くわからないものが多い印象が……。

328D の車内は、高校生(だと思う)の数が少なくなったものの、乗客はそれなりの数をキープしていました。GW 明けの平日というのも大きいのでしょうけど……。

長野政雄氏殉職の地

道央道和寒 IC のあたりでは離れた位置を通っていた国道 40 号ですが、再び線路沿いに近づいてきました。

そして線路が見えてきました。この錆具合は安全側線っぽいでしょうか。

旭川行き 328D は速度を落とし待避線に入りました。間もなく塩狩駅に到着です。

縦長の「塩狩峠」の碑と、横長の石碑が見えます。

残念ながらブレてしまっていますが、これが「長野政雄氏殉職の地」の石碑のようです。

駅を見下ろす高台には、三浦綾子の旧宅を移設して改装した「塩狩峠記念館」が見えます。

塩狩駅(W37)

17:47 に 328D は塩狩駅に到着しました。駅舎の手前に構内踏切があり、その構内踏切の手前にホームがあります(千鳥式ホーム)。上下線とも構内踏切の手前を停車位置とすることで、上下列車の運転士が通票(タブレット)を速やかに交換できるようにした……ということなのでしょうね。

駅の利用者の利便性は二の次に思える構造ですが、通票交換を速やかに行うことで停車時間を短くすることができるので、乗客がメリットを享受できる構造とも言えます。

和寒駅には負けるかもしれませんが、塩狩駅にも「本場の味」が少なくとも 4 枚は存在するようです。

快速「なよろ」停車駅

328D が塩狩駅に到着してから 3 分ほど経った後、1 番線(本線)に快速「なよろ 5 号」がやってきました。2016 年 5 月時点のダイヤでは快速「なよろ」は 4 往復設定されていましたが、塩狩に停車するのは 1 日 1 往復のみだったようです。

快速「なよろ 5 号」が出発しました。列車交換があるので運転停車代わりに塩狩駅で客扱いするのか……と思ったのですが、同じく塩狩駅に停車する快速「なよろ 4 号」は交換列車が無さそうに見えるので、意図的に 1 往復のみ停車するダイヤ設定のようですね。

小説「塩狩峠」ゆかりの駅

ちなみにこの塩狩駅も、2016 年時点で一日平均乗車人員が「1 名以下」の「極端にご利用の少ない駅」にノミネートされていました。名寄以南で「1 名以下」の駅は他に北剣淵駅と北比布駅のみで、どちらも 2021 年 3 月で廃止されてしまいました。

ところが塩狩駅は、同じく廃止された下士別駅や東六線駅よりも利用が振るわないにも拘らず廃止を免れたどころか、快速が 1 往復停車するなどの厚遇を受けているように見えます。これは列車交換が可能な構造になっていて、実際に交換を行う列車が多いということと……

鉄道員殉難の地としては日本でトップクラスの知名度を誇ることもあり、やはり観光資源としても価値が高いと見做されている、ということなんでしょうね。

トンネルの無い分水嶺

塩狩峠はその名の通り「天塩川」の流域と「石狩川」の流域を結ぶ峠ですが、鉄道・国道・高速道路のいずれもトンネルを掘らずに通過できているという点でも奇跡的な峠の一つに思えます(名寄本線の「天北峠」や池北線の「釧北峠」など、類例も意外とあったのですが)。

そして峠の頂点近くに列車交換可能な駅があるということは、停車に伴うコストが比較的少なく済むというメリットもありそうな気がします(発車後は下り坂になるので加速が容易)。これは流石に考えすぎのような気もしますが……。

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