有田川を渡ると有田川町に入るのですが、河川敷に学校のような建物が見えてきました。
グラウンドがあり、時計も見えるので「学校かな?」と思ったのですが、学校にしては窓が少ないですし、河川敷のようにも見えます(これは誤解で、この場所は河川敷では無かったのですが)。この建物は「有田周辺広域圏事務組合 環境センター」とのことで、要は焼却処理場のようです。
藤並駅
長い右カーブを抜けて、線路脇に謎の空き地が目立つようになり……
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地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
網走市と小清水町の境界となっている「濤沸湖」の南東端に注ぐ川の名前です。明治時代の地形図には「ツッポチ」あるいは「ツッポケ」と描かれているように見えます。
「スッポチ川」の西隣には「浦士別川」が流れていて、川が網走市と小清水町の境界となっています。「東西蝦夷山川地理取調図」には浦士別川に相当する川の支流として「トツホシ」という川が描かれているのですが、これも「スッポチ川」のことである可能性がありそうです。
浦士別川に合流する・しないという違いもあり、「スッポチ」と「トツホシ」と考えると違いは大きいですが、「ツッポチ」と「トツホシ」であれば同一視も可能ではないかと……。
この「スッポチ川」ですが、何故か知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には記述が見当たりません。ただ、意外なことに永田地名解にしっかりと明記されていました。
Toppochi トㇷ゚ポチ ウグヒ魚居ル處
知里さんは永田地名解に目を通している筈なので、何故漏れたのかは……謎ですね。-ochi は -ot-i で「群在する・もの(川)」だと考えられそうなので、topp あるいは toppo が「ウグイ(魚)」ではないかと考えられそうです。
ところが、知里さんの「動物編」には「ウグイ」を意味する語彙として 15 パターンが記されているのですが、その中には toppo に類するものが見当たりません。「ウグイ」を意味する語の中には supun があり、これは地名としても良く見かけるのですが……。
「動物編」では「ウグイ」の次に「やちうぐい」という項があり、そこには tó-čeppo(トチェッポ)や tó-uttoy(トウットィ)、tóy-supun(トィスプン)などの例が並んでいました。tó-čeppo の če が脱落したとすれば「トッポ」に近くなりますが……。
他の辞書類でも toppo を「ウグイ(魚)」とする記載は見当たらないのですが、またしても「アイヌ語古語辞典」の「『藻汐草』アイヌ語単語集」に次のような記載がありました。
・トゥツポ
① うぐいの如くにて(※水産物)(ソウヤ方言)
②
むー……。「藻汐草」の成立年代は 1792 年だそうですから、どう転んでも永田地名解よりも前の世代の文献です。また永田地名解では「トㇷ゚ポチ」としていましたが、どうやら「ト」ではなく「トゥ」(≒ツ)だったようで、「トツホシ」と「ツッポチ」の表記揺れが生じていたこともうまく説明できそうです。
永田地名解のアルファベット表記も考慮すると、「トゥツポ」は tutupo ではなく tuppo ではないかと思われます。「トㇷ゚ポチ」こと「スッポチ川」は tuppo-ot-i で「ウグイ(のような魚)・群在する・もの(川)」と解釈できるかもしれません。
「ト」を「ス」と見間違えた……ということになりそうでしょうか。「ス」が更に「ヌ」に化けていたら nup 関連に誤解される可能性が高まっていたので、まだマシと言えばその通りなのですが……。
ただ、一つだけ引っかかるのが「藻汐草」に「ソウヤ方言」とある点です。網走のあたりも宗谷地方と同様に樺太との接点が比較的太そうな印象があるので、共通する語彙がそれなりにあっても不思議では無いですが……。
仮に tuppo(ウグイのような魚)では無いとしたならば、tup-ot-i で「移動する・常である・ところ」と考えられるかもしれません。「スッポチ川」の下流部は濤沸湖の湿原だったと考えられ、「東西蝦夷──」では濤沸湖に注ぐのではなく「浦士別川」の支流として描かれています。流路が気まぐれに移ろっていたとも考えられるため、「いつも移動している川」と呼んだとしても不思議ではないなぁ、と……。
浦士別川の東支流で、浦士別川とスッポチ川の間を流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たらず、また明治時代の地形図にもこの川名は見当たりません(位置関係からは「ヲン子ナイ」に相当する可能性がありそう)。
ただ、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に次のように記されていました。
(424) イチャンケショマナイ(Ichan-kesh-oma-nai)(左枝川) イチャン(鮭の産卵場),ケㇱ(のしも),オマ(にある),ナイ(川)。
ichan-kes-oma-nay で「鮭鱒の産卵場・しもて・そこにある・川」と考えられそうですね。先程の「スッポチ川」も「ウグイのいる川」だった可能性が高そうですし、「浦士別川」自体が「簗のある川」だったっぽいので、漁業資源の豊富な水系だったっぽいですね。
浦士別川の東支流で、浦士別川とイチャンケシオマナイ川の間を流れています(地理院地図では「イチャンオマナイ川」)。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たらず、また明治時代の地形図にもこの川名は見当たりません(位置関係からは「ナイ」に相当する可能性がありそう)。見事にコピペですいません。
ただ、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に次のように記されていました。
(426) イチャンパオマナイ(Ichan-pa-oma-nai) イチャン(ホリ),パ(のかみ),オマ(にある),ナイ(川)。
ichan-pa-oma-nay で「鮭鱒の産卵場・かみて・そこにある・川」と考えられそうですね。先程の「スッポチ川」も(以下同文
ちなみに (424) と (426) の間に何があったのか、気になるところですが……
(425) イチャン(Ichan)(川中) イチャン(鮭の産卵場,いわゆるホリ)。
「しもて」と「かみて」の間には「イチャン」本体がありました。これ以上無い予定調和ですね……。
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津別町と美幌町の境界に聳える山の頂上付近にある一等三角点の名前です。標高 449.3 m とのことですが、近くに 450 m の等高線が描かれているため、三角点が位置するのは山の頂上では無さそうです。地理院地図で見た限りでは、三角点の位置は津別町側に見えるのですが、「一等三角点の記」によると所在地は美幌町とのこと。
明治時代の地形図には「トナイウシ山」と描かれていました。これだけ明瞭に描かれている割にはこの山についての情報は乏しく、「北海道地名誌」にも伝家の宝刀「意味不明」を出されてしまう始末だったのですが、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に次のような記述がありました(!)。
(326) ツ゚ナイェウシ(Tunayeushi) ツ゚ナイ(鯨),エ(そこに),ウㇱ(引つかかつた),イ(所)。小沼沢とコタンコアンオンネナイとの間にある山で,昔大津浪があつた際鯨がここに引つかかつたという伝説がある。
久々に豪快な伝説が出てきましたね。標高 450 m の山上まで津波が押し寄せた上にクジラが流されて引っかかったというのは、他の津波伝説と比べても格段に大規模な感じがします。
津別町と美幌町の境界(=津別川流域と美幌川流域の境界)は、屈斜路湖のカルデラと思しき「サマッカリヌプリ」の北から北西に伸びていて、戸内牛山のあたりではほぼ南北に伸びています。標高 400 m 台の山がいくつも連なっていて、その山容が鯨を想起させた、と言ったところでしょうか。
ただ不思議なのが、「鯨」を意味するのに tunáy という語を用いたところです。「鯨」は húmpe を用いるのが一般的で、tunáy については知里さんの「動物編」にも「補注」として次のようにあるのみです。
b) ‘ツ゚ナイ’。[tunáy は褶のことだ。‘腹にうねり’と注してあるのを見ると,ナガスクジラ族らしく思われる。ビホロでクジラの古語に tunáy という語があり地名などにも出てくる。]
「褶」は「ひだ」と読むとのこと。手元の辞書類には tunay あるいは「トゥナイ」についての情報は見当たらなかったのですが、唯一「アイヌ語古語辞典」の「『藻汐草』アイヌ語単語集」に下記の内容が記されていました。
・トゥナイ
① 鯨(腹にうねあり) ②〈動物〉クジラ(tunay は褶のことだ。)
「『藻汐草』アイヌ語単語集」の「②」は知里さんの「動物編」を含む各種資料からの引用なので、注目すべきは「①」のほう、ということになります。
あくまで仮説の域を出ていませんが「女満別」の例もあるので、美幌・津別の山中に古語由来の地名があっても不思議ではありませんが、やはり唐突な感は否めません。
「トゥナイウㇱ」という音を素直に読み解くと tu-nay-e-us-i で「二つの・川・頭(水源)・ついている・もの(山)」のように思われます。戸内牛山の西と南西には谷川があり、それぞれ北と西に向かって流れているのですが、元々はこの特徴を示した山名だったのでは無いでしょうか(間違った谷に下りると全く異なる場所に出てしまうので、その注意喚起では無いかと)。
「トゥナイウㇱ」が「二つの水源のある山」だったとすると、正確な位置は三角点のある山ではなく、その南隣の山だったかもしれません。