標茶町の「旭町踏切」にやってきました。「45K505M」とあるのは東釧路からの距離ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。
標茶駅(B61)
標茶駅の構内に入りました。出発信号機が見えていますが、その後ろに線路跡と思しき右カーブが見えています。
続きを読む釧路行き快速「しれとこ」は「磯分内駅」に到着しました。線路が見えますが、これはかつての貨物ホームに向かうものらしく、現在は保線用車輌用に残してあるとのこと。
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磯分内駅の西には「北海道製糖」の磯分内工場があり、駅の北西から専用鉄道が伸びていました。
北海道製糖改め「日本甜菜製糖」の磯分内工場は 1970 年にホクレンに売却され、現在ではすっかり野に還りつつあるように見えます。
Wikipedia によると、駅の南東にある「雪印乳業磯分内工場」までも専用線が存在した……とありますが、1970 年代の航空写真ではその存在が確認できない……ような気がします。
磯分内駅は 1 面 1 線の棒線駅です。かつては 2 面 2 線の相対式ホームに加えて貨物ホームがあり、また貨物列車用の副本線(と言うのですね)もあったそうですが……。
続きを読むやあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
西別川の北を流れる川で、途中に「
「尾岱沼」の場合はそもそも to じゃ無いだろう、という話もありますが。
「東西蝦夷山川地理取調図」には「エシヨマヘツ」という名前の川が描かれています。「茨散沼」に相当する沼が描かれていないのはちょっと不思議な感じもしますが、「東蝦夷日誌」には次のように記されていました。
濱續き(十一丁五十間)エシヨマベツ(小川)平沙地、上に茫地〔落地 ヵ、谷地〕多し。
これを見た感じでは、「茨散沼」から流れ出る川が「エシヨマベツ」と認識されていた、と見て良さそうでしょうか。
永田地名解には次のように記されていました。
Nisho para pet ニショ パラ ペッ 鑛氣アル廣川 水赤クシテ上流ニ沼アリ
また、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」にも次のように記されていました。
湿地を流れているこの川岸と川底は、見事な赤褐色であった。
ふむふむなるほど。そういうことか……と思ったのですが、手元の辞書類を調べても「ニショ」に「鉱気」、「金属混じり」という意味が確認できないのですね。nis は「空」ですし、nisu で「臼」だったり nisa で少額投資非課税制度「木の空洞」だったりするのは確認できるのですが……。
壁にぶつかった時には、一歩引いて物事を俯瞰すると良い……なんて話もありますが、このあたりの地図を大縮尺で見てみると、茨散沼の西に「清丸別川」という川があることに気づきました(西別川の北支流)。
この「清丸別川」、「東西蝦夷山川地理取調図」では「キモハルヘツ」とあり、明治時代の地形図では「キムクシパラペツ」と描かれています。頭の「キモ」あるいは「キム」は kim で「山(側)」と考えて良さそうでしょうか。
kim について、「地名アイヌ語小辞典」では次のように記されていました。
kim きㇺ 里または沖合に対して云う山。生活圈の一部としての山。村の背後の生活資料獲得の場としての山。「爺さんが山へ柴刈りに行った」などという時の「山」の観念に当る。従ってこの kim は聳えることができない。それが nupuri 「山」との差である。
「清丸別川」ですが、わざわざ kim を冠しているということは、その対になる川の存在が示唆されます。kim の対義語として真っ先に考えられるのが pis「浜」ですが、「西丸別川」は「清丸別川」よりも東(海側)に位置するため、「西丸別川」が pis- であると考えても位置関係には矛盾はありません。
「ちょっと待て、松浦武四郎が記録したのは『エシヨマベツ』じゃないのか?」とツッコまれそうな気もしますが、「午手控」には「ニシヤマルヘツ」あるいは「ニシヨマルヘツ」と記録されているため、「エ──」は「ニ──」の誤字(転記ミス)と考えることも一応は可能です。
もっと重大な問題として、果たして pis- が nis- に化けることがあるのか……という話がありますが、これは山側に kim- を冠する川名があることから「化けたんです!」と言い切るしか無いでしょうか(少し北に「ニシユパオマペツ」があったとされるので、その影響を受けた可能性もあるかも知れません)。
ということで、「ニシヨパラペツ」であれば pis-o-para-pet で「海側・にある・広い・川」と考えたいところです。あるいは para ではなく haru で「海側・にある・食料・川」だったかもしれません(=菱の実あたりを拾える沼だった可能性)。
問題は「ニシヤマルヘツ」で、pis-oma-pet で「ル」が行方不明になってしまうので、pis-oma-ru-pet で「海側・そこにある・路・川」となるでしょうか。
あるいは……ですが、pis-oma-ru-pet で「海側・そこにある・(氷が)解ける・川」の可能性もあるかもしれません。
やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
現在の「別海町床丹」集落は海沿いを南北に伸びているのですが、集落の南部を「トリサンケベツ川」が流れています。ただ地理院地図には川として描かれていないレベルで、地元でも川として認識されているか、ちょっと疑わしい感じもしますが、「国土数値情報」でもちゃんと川として扱われているんですよね。
「東西蝦夷山川地理取調図」には「トーサンケヲマエ」という地名?が描かれていました。また「東蝦夷日誌」にも次のように記されていました。
トウサンケヲマナイ(小川)、此上に沼有、名義、沼より下る儀也。
to-sanke-oma-nay で「沼・浜へ出す・そこにある・川」と考えたのでしょうか。地形図ではところどころに谷地があるように見えますが、鎌田正信さんは「道東地方のアイヌ語地名」にて次のように言及していました。
現在この沢の上流には、沼らしき形は見えない。干し上がってしまったのであろうか。
地理院地図を見る限りでは谷地はありそうにも見えるんですが、やはりこの説はちょっと疑わしいと見るべきでしょうか。
永田地名解には次のように記されていました。
Turi sange nai ト゚リ サンゲ ナイ 棒ヲ下ス澤 未タ橇ナキ以前ニハ縄ヲ棒ニ付ケ額ニ當テ棒ヲ山ヨリ下シタル故ニ名ク此澤ノ雨降ラザレバ水無シ
永田さんがいつになく饒舌……ということは、少し疑ってかかる必要が出てきますが(ぉぃ)、この川については「午手控」にも次のように記されていました。
トリサンケヲマ むかし家を作る木を山にて切て、担で浜え下りし由。トリは棹の事、サンケは下ると云事
あら。turi-sanke-oma(-nay) で「棹・浜へ出す・そこにある(・川)」とありますね。sanke という動詞を oma で受けるのはちょっと変な感じもしますが、「チㇷ゚サンケ」という「舟を川に下ろす」神事があるので、それと似たような感じで「棹」を下ろすイベントがあって、それが行われる場所……とかだったんでしょうか(でもそれだったら turi-sanke-us-i のほうが良さそうな気も)。
それにしても、ちょっと不思議なのが、「午手控」には割と妥当に思える内容が記されているにもかかわらず、「東蝦夷日誌」ではちょっと外した内容に書き換えられるケースが続いていることで……。ウケ狙いで話を盛ったようにも見えないですし、一体何なんでしょう……?