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春の道央・道北の旅 2010 (64) 「『いさりの碑』」

「いさりの碑」

さてさて。大変残念な事ながら、猿払村の「日ロ友好記念館」は、「万国の労働者よ、欠席せよ」ということで(←)中を見ることはできませんでした。あ、いや、別にストライキとかそういうのでは無いんですけどね。

さるふつ公園」のあたりには、「インディギルカ号遭難者慰霊碑」のほかにも、このようなモニュメントもあります。

これは「いさりの碑」という名前がつけられているのですが、そこに記されている文章がなかなか興味深いものなので、例によって全文引用しておきます。

いさりの碑

帆立貝漁場造成事業10周年に当り猿払の漁業のうつりかわりを振返って見る 我々の先人がオホーツクの海の魚貝類に生活の糧を求めたのは明治の初め頃のことだ それから一世紀になんなんとしている 春 4月5月 鰊の群来で海は乳白色になり獲っても獲ってもなくならないものと思われた 鮭鱒は海の荒くれ男と力比べをするように網もさけよとばかり乗網した 海扇と呼ばれた帆立貝は海の底に幾層にも重なり合っているのではないかと錯覚を起こさせる位生棲していた しかし之等の生物の運命も貪欲な人間の前には所詮は滅亡の運命が待ち受けていた 今日ではあらゆる資源は有限であることが認識されている しかし生物資源は自然と人間の適正な育成管理によって永続させることが出来る筈だ 私達も自然の摂理にかなった生物資源の育成管理を科学的調査と人智をあつめてやってみた 春夏秋冬 自然の摂理は一世紀の昔も今と変りなく繰返され生物の生命力は見事に部族と子族の反映に其の力強さを見せてくれた 今 オホーツクの海は先人の開拓した時のように帆立貝が見事に結実してたわわな実を見せている 鮭鱒もまた間もなくふ化事業の結実を見せようとしている 猿払の海を拓いた多くの先人の労苦と偉業を偲び其の意志を我も子孫もうけつぎそして実践することを肝に銘じ 今此の碑を建てる

人間は神々と力を競うべきではない
人間は自然の摂理に従うべきだ

昭和56年11月22日
 猿払村漁業協同組合
宗谷郡猿払村さるふつ公園内「いさりの碑」より全文を引用)

記念碑であることは間違い無いのですが、全体的な調子が抽象的だったり具体的だったりで……なんだか面白いです。最後の二文がぐっと来ますが、Wikipedia を見てみると

  • 1954年(昭和29年)、この頃よりニシン水揚が激減。沖合のホタテ漁も乱獲により衰退し、漁民の多くが経済的困窮により離村を余儀なくされる。
  • 1963年(昭和38年)、及び1967年(昭和42年)にかけて相次いで炭鉱閉山。林業も衰退し、僅かに酪農を除いた村内の産業経済が完全に停滞。当時は「貧乏見たけりゃ猿払へ行きな」と言われるほどの有り様であり、住民の生活は困窮を極める。
  • 1971年(昭和46年)、猿払村漁業協同組合10年計画による初のホタテ稚貝放流事業を実施。以降、巨額を投じてホタテ放流事業に村の復興を賭ける。
  • 1981年(昭和56年)、ホタテ漁業造成事業を終了。以後、計画的な稚貝放流により驚異的なホタテ水揚を維持することとなる。
Wikipedia 日本語版「猿払村」より引用)

ということなのだそうで……。「いさりの碑」締めの二文には軽度の矛盾が感じられるのも確かなのですが、まぁ、いいですよね。

ちなみに

軽度……ではなくて経度のほうはこんなところです。

はい、北緯45度越えですね。

ちなみに、「インディギルカ号遭難者慰霊碑」「いさりの碑」がある場所と、「日ソ友好記念館」(あ、今は「日ロ」でしたね)がある場所は、国道 238 号を挟んだ向かいどうしです。地下道もあるみたいなので、車を置いたまま歩くのも良いかと思います。

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