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春の道央・道北の旅 2010 (79) 「九人の乙女」

天地がひっくり返った十日間

戦前は日本領だった南樺太の「大泊」(コルサコフ)と、稚内を結んでいた国鉄の「稚泊連絡船」は、1945 年 8 月 22 日に大泊を出港した「宗谷丸」が最後となりました。

この航海には定員の 6 倍近い避難民を乗せた……とありますね。そして、これが「疎開の最終船となりました」とあります。内地への避難が始まったのが 8/13 で、日本がポツダム宣言を受諾したのが 8/15、そして疎開が打ち切られたのが 8/22 ですから、天地が引っ繰り返った十日間だったことでしょう。

ちなみに、この「宗谷丸」と姉妹船の「亜庭丸」は、「本格的な砕氷設備を備えた」とあります。なるほど、「結氷せる大泊港驛に堂々入港の稚泊連絡船」と見得を切るのも理解できますね。

九人の乙女

有名な「九人の乙女」の悲劇があったのは、最後の稚泊連絡船が出港する二日前の 8 月 20 日のことだったそうです。

前述の通り、樺太では 8 月 13 日から内地への避難が始まります(皮肉なことですが、樺太はこの僅か 2 年前の 1943 年 4 月 1 日に「外地」から「内地」に移管されたばかりでした)。多くの居留民が南下するソ連軍に脅えながら逃げ惑う中、真岡郵便電信局に勤務していた 9 名の女性電話交換手が、ソ連軍が迫り来る中職務を全うし、局内で自決を遂げた、という事件がありました(「真岡郵便電信局事件」)。

最後の電文は「皆さん これが最後です さようなら さようなら」で結ばれていたとされます。このフレーズがあまりに有名なものですから、この前にあった筈の文章が霞んでしまっているのが悲しい限りです。

「氷雪の門」と「ハマタ天皇

稚内公園には「氷雪の門」というオブジェもあるのですが、その脇にも慰霊碑(「九人の乙女の碑」)が建立されています。

碑文も、同じく「最後の電文」とされるものですね。

浜森辰雄市長(当時)の文もあります。

浜森氏は、稚内市長を 8 期連続して務めた(1959 年~1991 年)ことでも有名でした。人は氏のことを「稚内天皇」「ハマタ天皇」と評した……と聞きました。戦後の稚内を語る上では欠かすことのできない人物だったようです(2009 年没)。

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