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春の道央・道北の旅 2010 (89) 「かつて、石炭が『血』で、そして鉄道が『血管』だった時代があった」

曙のあたりをうろうろと

40 年前まで「羽幌炭鉱」があったあたりをうろうろしています。地図だとこのあたりです。

非現実的な現実

さて、こちらは……。

学校の跡のように見えます。どうやら……羽幌町立北辰中学校の跡のようですね。

学校の跡を通り過ぎ、さらに三毛別(さんけべつ)川沿いを羽幌砿方面に向かうと、なにやら巨大なホッパ(だと思います)が見えてきました。

くすんだコンクリートの色合いと 5 月の陽光、そしてその陽光を眩しく跳ね返す雪というのは、いかにも非現実的かつアンバランスで、何とも絵としてのまとまりに欠ける組み合わせだと思わせます。でも、これが現実ですし、それもまたアリ、ですね(← 何を言ってんだか

「名羽線」の話

このあたりは、なんと築別炭鉱の閉山が決定的となっていたタイミングで、新たに国鉄線(予定)の工事を始めようとしていたという、いわくつきの場所でもあります。人の気配がなくなったところに鉄道線を敷設しようとしたわけで、その計画の無謀さをひと目確かめておこう、というのが寄り道の主な目的だったりします。

ちなみに、この工事線は「名羽線」(めいうせん)と呼ばれていたそうです。「名寄」と「羽幌」を結ぶ「名羽線」だったのですが、工事は途中で打ち切りとなり、開通することはありませんでした。ちなみに、名寄と羽幌を結ぶ道路すら、未だに存在していません。いかにこの計画が荒唐無稽であったかを証明するかのようですね。

かつて、石炭が「血」で、鉄道が「血管」だった時代があった

多少のフォローを入れるならば、戦前においては「名羽線」ならびに「美幸線」の存在意義も多少はあった、と言えるのだそうです。枝幸(北見枝幸)と美深を結ぶ予定だった「美幸線」と、名寄と羽幌を結ぶ予定だった「名羽線」は、オホーツク沿岸と日本海沿岸を最短距離で結ぶ輸送路としての需要が(当時は)見込まれていた、のだとか。

素直に稚内沖を船で通れば良いような気もするのですが、季節によっては流氷に行く手を阻まれることも考えられますし、ソ連と交戦状態になったならば宗谷海峡の船舶の安全も保障できません。そして、羽幌炭鉱からは日本でも有数の良質な石炭が算出されるという話であれば、羽幌から朱鞠内まで線路を敷設する、というのも、それなりに意味のあること、だったわけですが……。

石炭の採掘が行われなくなり、急速に衰退していった羽幌の街には、もはや「名寄への鉄道」などは、全く無意味な存在になってしまった、ということのようです。諸行無常、ですね。

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