眼前ろーぜず(←
隠岐は島後の最北端(ですよね)にある「白島海岸」の話題を続けます。
眼前には色鮮やかな緑が幾重にも広がります。……ああ、こういった文学的?な表現は苦手だ(←
そして、その先には「白島」と、灯台のある「沖ノ島」が見えます。隠岐の島の沖合にある沖ノ島というのも、びみょうにややこしいですね。
海蝕洞(かいしょくどう)
そして、その「白島」や「小白島」から少し手前のほうを見てみると……
これはまた鮮やかなエメラルドグリーンの海です。少し拡大してみましょう。
海蝕洞が見えます。この島の名前はどうやら「帆掛島」と言うみたいです。
わたのはら(一つ目)
展望台には、野口雨情の歌碑(どうみても「看板」ですが)と、「隠岐島後民話・伝説案内板」があります。
「──案内板」のほうを、読みやすいように拡大しておきましょう。
曰く、小野篁はここ白島海岸で「わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟」という歌を詠んだのだとか。
もっとも、これは篁が配流のために京を離れるときに詠んだとも言われているので、そうだとするとこの案内板の説明は矛盾するわけですが。
小野篁伝説
ちなみに、小野篁という人は小野道風の祖父にあたる人なのですが、なかなかの才長けた奇人(貴人ではなく)だったようです。それがなぜ流罪に処されたかと言えば……
承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使藤原常嗣の専断に憤慨しいさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否(遣唐使は篁を残して同年6月渡海)する。さらに、「西道謡」という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流に処された。
あははは(乾いた笑い)。ちなみに「西道謡」なる詞の本文は失われてしまっているようなのですが、その代わりと言ってはなんですが、こんな小話が今に伝わっています。
嵯峨天皇の時代、内裏に「無悪善」と書いた立て札が立てられた。天皇が篁に読み方を尋ねたところ「さが(悪)なくてよからん(嵯峨天皇がいなければよいのに)」と読んだため、読めたのは篁が書いたために違いないとして怒った天皇は、自分は何でも読めるのだと弁明する篁に「子」の字を12個連ねたものを篁に差し出し。「ならば、これが読めるか」と問うたところ、「ねこのここねこ、ししのここじし」とたちどころに読んだため、天皇の怒りが解けたという。
まぁ、これはあくまで実在のキャラをベースにした二次創作だと思われますが、後世になってこのようなネタが創作されるという事実から、市井の人が篁の「キャラ」と「才能」をどう捉えていたのかを見て取れます。そして、嵯峨上皇の怒りを買ったという「西道謡」に、どのような「たくらみ」が含まれていたのかも推して知るべし……ということなのでしょう。
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