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「日本奥地紀行」を読む (24) 東京 (1878/6/7)

今日も 1878/6/7 の「第四信」を見ていきます。

厳粛な契約(続)

さて、イトー少年の話は一旦措きまして……。イザベラは関係各位の多大なる尽力のもと「奥地紀行」を敢行しようとしているのですが、同時に、その先行きを危ぶむ声も少なくなかったようです。

 英国夫人で奥地を一人旅した人はまだ誰もいないので、私の計画に対して友人たちは心から心配してくれる。思い止まらせようとしたり、警告したりするものが多いが、激励してくれるものは少ない。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.48 より引用)

「激励してくれるものは少ない」というのは面白いですね。いつの時代でも「探検家」の身の安全を危惧する声は絶えることなし、といったところでしょうか。

ヘボン博士の反対は、最も知性的なものであるだけに、最も強力な反対であった。この旅行を私がやるべきではないし、やったところで決して津軽海峡まで到達することはできないだろう、というのであった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.48 より引用)

なるほど、ヘボンさんもイザベラの奥地探検には「反対」の立場を取ったのですね。「北海道(蝦夷地)の土を踏むことが無い」ではなく「津軽海峡まで到達できない」という予想は、後になって考えるとかなり正鵠を射ていたとも言えるものでした。

蚤は、特に日本の夏の旅行の際の大敵であるという点で、残念ながらすべての人の意見が一致した。寝るときにはスリーピング・バッグに入って、喉のまわりをしっかり結んでおくがよい、とすすめる人もあれば、寝床に除虫粉をたっぷり撒けばよいというものもあり、皮膚をすっかり石炭酸油で塗るのがよいという人や、乾燥させた蚤除け草の粉を充分に活用すればよいという人もいる。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.49 より引用)

これも全くその通りで、北に向けて出発してからは、イザベラは粗末な日本の民家(風の旅籠?)に泊まることも多くなるのですが、随分と「ノミ」には苦しめられたようです。「除虫粉」とか、「乾燥させた蚤除け草の粉」というのは、今で言う「蚊取り線香」に近いものかも知れませんね。

残念ながら、ハンモックは日本の家の中では用いることはできない。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.49 より引用)

うーん。言われてみれば……。ハンモックがあればノミとの格闘はしなくても済んだわけで、確かにもったいない話です。蚊帳とハンモックがあればベストだったんでしょうけどね。

食物の問題

続いては「食物の問題」についてです。具体的には……

 食物の問題は、いかなる旅行者にとっても最も重要な問題であるといわれる。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.49 より引用)

といった内容ですね。確かに、異国を旅する上では食べ物の問題はとても重要です。

実際に日本では、多くの人が出かける保養地の外人用の少数のホテルを除いては、パン、バター、ミルク、肉、鶏肉、コーヒー、葡萄酒、ビールが手に入らない。新鮮な魚も珍しい。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.49-50 より引用)

「ワインやビールが手に入らない」というのは理解できるのですが、「新鮮な魚も珍しい」というのは盲点ですね。海沿いの漁師町であれば「海の幸」はいくらでも手に入るのですが、少し内陸部に入ってしまえば、鮮度を保ったまま生きた魚を輸送する方法は無いに等しかった、ということなのでしょう。

だから、米飯や、茶、卵を常食とし、ときどき味のない新鮮な野菜類をつけ加えて食べる人でもなければ、食料を携行しなければならぬ。「日本食」というのはぞっとするような魚と野菜の料理で、少数の人だけがこれを呑みこんで消化できるのである。これも長く練習をつまなければできない(*)。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.50 より引用)

「味のない新鮮な野菜類」とは……。まさかイギリスの人にこんなことを言われるとは思わなかったですね(にっこり)。「『日本食』というのはぞっとするような魚と野菜の料理で」という言い回しからは、どうやらイザベラの食生活が肉食中心だったことを窺わせます。

この一節には、以下のような注が付されています。

 * 原注──奥地の最も困難な地方を数カ月の間旅行した経験から、私はふつうの健康体の人──その他の人は日本を旅行すべきではないが──に対して忠告したい。リービッヒ肉エキスは別として、缶詰の肉やスープ、赤葡萄酒、その他の食物や飲物をわざわざ持参する必要はない、と。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.50 より引用)

「リービッヒ肉エキス」って何だろ? という疑問が湧いてくるのですが、これはどうやら、Justus von Liebig 男爵が商品化した「肉エキス」のことのようです。

このころ、食品などに関する研究を行った。その成果をもとに1865年に肉エキスを抽出する会社を設立、また1867年には育児用ミルクを作成した。肉エキスは後に栄養学的にはあまり意味がないことが明らかになったが、嗜好品として商業的には大成功し、食品加工産業の先駆となった。
Wikipedia 日本語版「ユストゥス・フォン・リービッヒ」より引用)

うーん、現代で言う「味の素」の先駆者的な存在のものだったのでしょうか。ただ、それはそうと、イザベラの言う「缶詰の肉やスープ、赤葡萄酒、その他の食物や飲物をわざわざ持参する必要はない」というのはどういった意図があってのことなのでしょうか。確かに、これらの食料を持参したならば、大勢でパーティーを組んで移動せざるを得なくなりますが、当時の交通事情を考えるとそれは不可能である、という意味でしょうか。それだとちょっとニュアンスが違ってくるような気もしますが……。

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