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「日本奥地紀行」を読む (25) 東京 (1878/6/7)

1878/6/7 付けの「第四信」を見ていきます。長かった「第四信」も、ようやく今日で最後です。

食物の問題(続)

「食べ物の問題」に続いて、ちと耳の痛い話題が始まります。

 話題になったもう一つの困ったことがある。これはずっとくだらぬ問題だが、日本人の召使いがよくやることで、道中で金銭の取引きがあると、その度毎に分け前をはねるのである。したがって、旅行の費用が倍になることが多く、召使いの能力と腕前によっては三倍になることがある。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.50 より引用)

このように「分け前をはねる」ことは、「中国人の買弁」というセンテンスではどちらかと言えば肯定的?に書かれていたのですが、こと「召使い」の行為としてはイザベラは忌み嫌っていたようですね。「能力と腕前によっては三倍になることがある」というのも、なかなか面白い話です。

広く旅行してきたという三人の紳士が、道中で支払うべき値段表を私にくれた。各地でまちまちであったが、旅行者のよく行くところでは値段が大きく増していた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.50 より引用)

なるほど。「地球の○き方」の原点は、こんなところにあったのですね(笑)。観光地ではお値段がちょいと高めというのは、明治の頃も今も変わらぬ普遍的なものであるようです。

これをウィルキンソン氏が伊藤に読んできかせたが、伊藤はときどき抗議をした。氏は伊藤と日本語で会話をしてから、お金の問題ではよく用心をなさるがよかろう、と私に言った。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.50 より引用)

これだけ読むと、伊藤はずいぶんと酷い人間に思えてきますが、実際の所はどうだったのでしょうか。正当な仕事をして正当に分け前?をもらうのは、決して悪いことでは無い筈なのですが……。

私は、今まで他の人間をうまく扱ってきたことはないから、前途は暗いものである。このように器用で狡猾な日本の青年をうまく扱うなどは、とてもできぬことであろう。彼はなんでも自分の好きなように私をごまかすことができるだろう。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.50-51 より引用)

いつも勝ち気に見えるイザベラ姐さんにしては、珍しくネガティブな文章ですね。

 当地へ帰ってみたら、パークス夫人が私のために必要な準備をやってくれていた。その中には、油紙でつつんだ二個の軽い籠、旅行用ベッド《畳み込み寝台》、折り畳み式椅子、ゴム製の浴槽があった。このように長い期間にわたる旅行では、か弱い人には以上の品物全部が必需品であると、彼女は考えてのことである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.51 より引用)

この「当地」という言い回しの意味が分かりづらいのですが、ハリー・パークス夫人がいるということは、麹町の英国公使館近辺でのことですね。ノリとしては、キャンピングカーでの旅行に近いものがあるようにも思えます。明治時代に既に「ゴム製の浴槽」があったというのには驚かされます。

しかし外国人は北部日本に関してほとんど何も知っていないようだ。政府にも照会してみたが、「情報不足」という理由で、私が踏破しようとしているコースのうち一四〇マイルを空白にして、旅程表を返してよこした。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.51 より引用)

さすがは明治政府です(笑)。約 224 km を「情報不足」としたようですが、まぁ仕方が無いかも知れませんね。

サー・ハリーは愉快そうに言った。「あなたは旅行しながら情報を手に入れるんですね。その方がかえっておもしろいじゃありませんか」。ああ! しかし、どんなふうにして手に入れるか。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.51 より引用)

このやりとりを見る限りでは、ハリー・パークス卿はイザベラの奥地紀行について肯定的に見ていたようですね。ハリー・パークスは京都で斬りつけられたりしたこともあるくらいなので、肝が据わっているのかも知れません。

こうして、イザベラの奥地紀行への準備は、ようやく加速し始めたのでした。

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