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「日本奥地紀行」を読む (47) 日光 (1878/6/23)

今日からは、1878/6/23 付けの「第十信」(本来は「第十三信」となる)を見ていきます。

静かな単調さ

イザベラは、これからの奥地紀行の準備を整えるために日光の入町村に十日ほど逗留しましたが、イザベラが入町村を気に入るのには、十日間の逗留は十分過ぎるほどだったようでした。

当地における私の静かで単調な生活も、終わりになろうとしている。人々はたいそう静かで優しい。ほとんど動きがなさすぎるほどである。私は村の生活の外面を少しばかり知ることができるようになった。私はこの土地が全く好きになった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.118 より引用)

しかしイザベラはその一方で、当地の気候については壮大に愚痴っていました。ちょっと愚痴が過ぎたと思ったのか、普及版では見事にカットされているのが面白いですね。

しかし気候は失望させるものである。雨でない時は、空気はまるで蒸し風呂のようであり、雨が降る時はそれが一般的だがまるで激流です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺中央公論事業出版 p.52 より引用)

本州は温暖湿潤気候ですから、まぁ仕方がないと言えばそれまでですが、内陸部の夕立はまさしくこんな感じですよね。イザベラが日光に逗留したのは 6 月だったようですから(旧暦は 1872 年に廃されているので、これは新暦ですよね)、ちょうど梅雨時まっただ中だったことになります。ちょっと時期が悪すぎましたね。

イザベラさんの愚痴は更に続きます。

気温は華氏72°から86°[約22℃~30℃]もあり、湿気もうもうとして縫い針も錆び、本も靴も白カビに覆われてしまい、道路も壁も菌 Protococcus viridis で日々ますます緑色になっています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.52-53 より引用)

当時はエアコンなどと言った文明の利器は無かったでしょうし、日光の入町はただでさえ急流が多い上に日当たりも良くはないところだったでしょうから、そのジメジメ度は相当なことだったでしょうね。ただ、優秀な地誌著述者だったイザベラさんにしては、本州の六月が長雨(梅雨)の時期である、という事実を書き漏らしているのがちょっと意外な感じがします。

本の学校

とどまるところを知らないイザベラの観察眼は、今度は入町の子どもに注がれました。

道路には、四段や三段の階段がところどころに設けてある。その各々の真ん中の下に、速い流れが石の水路を通って走っている。これが子どもたち、特に男の子たちに限りない楽しみを与えている。彼らは多くの巧妙な模型や機械玩具を案出して、水車でそれらを走らせる。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.118 より引用)

石段の真ん中がくぼんでいて、そこを雨水が流れるという構造でしょうか。これは意図的な構造ではなく、偶々そうなったという類のものかもしれません。男の子が案出したという「機械玩具」はどのようなものだったのでしょう。さすがに木工はそう簡単では無いですから、竹細工あたりだったのでしょうか。

さて、ここからは明治初頭の「学校」の描写が始まります。

しかし午前七時に太鼓が鳴って子どもたちを学校に呼び出す。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.118 より引用)

「太鼓」というのがとても日本的ですね。午前 7 時というのはちょっと早いような気もしますが、当時は夜更かしする子どももいなかったでしょうから、これくらいでちょうど良かったのかもしれません(あるいは午後からは労働力として期待されていたところもあったのかも)。

明治初頭の学校は、イザベラの想像に反して高度に西洋様式を取り入れたものだったようです。

学校の建物は、故国(英国)の教育委員会を辱しめないほどのものである。これは、あまりに洋式化していると私には思われた。子どもたちは日本式に坐らないで、机の前の高い腰掛けに腰を下ろしているので、とても居心地が悪そうであった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.118 より引用)

家には「机」や「椅子」なんてものは無かったでしょうから、確かに慣れないうちはぎこちなく感じていたのでしょうね。

従順は日本の社会秩序の基礎である。子どもたちは家庭において黙って従うことに慣れているから、教師は苦労をしないで、生徒を、静かに、よく聞く、おとなしい子にしておくことができる。教科書をじっと見つめている生徒たちの古風な顔には、痛々しいほどの熱心さがある。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.119 より引用)

明治初頭の学校には、昔の日本で見られた光景がありました。それにしても「従順は日本の社会秩序の基礎である」という一文は慧眼ですね。日本人の本質をあっさりと見透かされたような感じすらします。

外国人が入ってくるという稀な出来事があっても、これらあどけない生徒たちの注意をそらすことはなかった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.119 より引用)

これについては、事前に十分なインフォームド・コンセントがあったのでしょうね。さすがに「欧米人は赤鬼だ」といった吹き込みは無かったでしょうが、たとえば今でも「授業参観」だの、エライ人の「視察」だのがあったりすると、「借りてきた猫」状態になることがありますよね。その辺が徹底されていたんじゃないかな、などと思ったりもします。

憂鬱な小歌曲

これまた意味深な題名ですが、実はですね……

子どもたちは、ある歌の文句を暗誦したが、それは五十音のすべてを入れたものであることが分かった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.119 より引用)

はい。「ある歌」の内容がこちらです。

それは次のように訳される。
  色や香りは消え去ってしまう。
  この世で永く続くものは何があろうか。
  今日という日は無の深い淵の中に消える。
  それはつかの間の夢の姿にすぎない。
  そしてほんの少しの悩みをつくるだけだ。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.119-120 より引用)

確かに、何とも陰鬱な、あるいは厭世的な歌のように思えます。……もうお気づきだと思いますが、これは「いろは歌」を英訳したものを再度和訳したものなんですね。ちなみに英訳はこちら。

“Colour and perfume vanish away.
What can be lasting in this world?
To-day disappears in the abyss of nothingness;
It is but the passing image of a dream, and causes only a slight trouble.”

いろは歌」を翻訳したイザベラは、その内容を「憂鬱な歌である」と結論づけて、その本質を「東洋独自の人生嫌悪を示す」としました。

これはあの疲れた好色家の「空の空なるかな、すべて空なり」(「伝道の書」)という叫び声と同趣旨のものであり、東洋独自の人生嫌悪を示す。しかし幼い子どもたちに覚えこませるのには、憂鬱な歌である。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)

ちなみに、西洋でも似たような目的で使用される "Lorem ipsum" で始まるテキストがあります。広く使われるようになったのは 1960 年代以降らしいので、イザベラがそれを知るよしも無いのですが、こちらも元々は古代ローマの哲学者キケロの著作がベースなのだそうです。

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同様に、悲しみそのものを、それが悲しみであるという理由で愛する者や、それゆえ得ようとする者は、どこにもいない。
Wikipedia 日本語版「Lorem ipsum」より引用)

んまぁ、確かに違うと言えば違うんですが、これも決して「快活な文章」とは言えないような気もするような……。まぁ、「いろは歌」は子どもに五十音を教えるための教材であって、その内容に思想を見出すのはちょっと穿ちすぎなんじゃないかなー、と思ったりもします。

中国の古典は、昔の日本教育の基本であったが、今では主として漢字の知識を伝達する手段として教えられている。それを適度に覚えこむために、子どもたちは多くの無駄な労力を費やすのである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)

これまた厳しい見方ですね。イザベラが「表意文字」というものの概念をどの程度理解していたかを、ちょっと疑問に思えてきました。まぁ、過度に礼賛されてもその内容の信頼性が損なわれてしまうので、「アングロサクソン的な視点」が素直に綴られているほうが、こちらも見ていて面白いのですけどね。

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