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アイヌ語地名の傾向と対策 (445) 「日昼岬・上古丹川・久遠」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

日昼岬(にっちゅう──)

nisu-so-etu
臼・水中のかくれ岩・鼻(岬)
(典拠あり、類型あり)

せたな町大成区久遠と帆越岬の間には、東から順に「小歌岬」「日昼岬」「添泊岬」が並んでいます。なお、今回取り上げる「日昼岬」は、太田と鵜泊の間にある「日昼部」「日中戸岬」とは違う位置にあります。

久遠に近いほうの「日昼岬」と「添泊岬」は少々ややこしいことになっていまして、西蝦夷日誌には次のように記されていました。

コウタ(小濱)、ニシユエト(小岬)和人ソエ泊〔添泊〕と云、ソエは鯫の事也。此魚多きが故也。岬の北はホグシ〔北越岬〕と對し、南は關内に幷びて灣となれり。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)時事通信社 p.19 より引用)

旧字が多いですが……なんとなく読めますよね? 「鯫」は「シュ」または「ソウ」と読むそうですが、意味は「雑魚」「小魚」「つまらないもの」と言ったあたりだそうです(汗)。

西蝦夷日誌の記述を読む限り、「ニシユエト」=「ソエ泊」と考えていたように見受けられます。現在は「日昼岬」と「添泊岬」は隣り合わせになっているので、どこかで取り違えたあったとも考えられますが、東西蝦夷山川地理取調図をよーく見ると「ソエトマリ」のトナリニ「シシヨシヨエトワ」という文字も見えます。

この「シシヨシヨエトワ」が「ニシヨシヨエトク」であれば、「ニシユエト」と同じものを指しているようにも思えます。永田地名解も見ておきましょうか。

Nishu sho etu   ニシユ ショ エト゚   臼崎岩 和名「ソイ」泊ト云フ藻魚多キヲ以テ名ク

永田っちも西蝦夷日誌以来の誤謬を引き継いでしまったのか、あるいは元々同一の場所を指していたのが分離してしまったのかは謎のままですが……。nisu-so-etu で「臼・水中のかくれ岩・鼻(岬)」がそのまま「日昼岬」になった、と考えて良さそうでしょうか。

上古丹川(うえこたん──)

wen-kotan
悪い・集落
(典拠あり、類型多数)

アイヌは、自分たちの生活領域内にある川には、相当小さなものであってもきちんと名前をつけていました。名前の付け方は実利的かつ即物的な特徴を割り当てたものが多かったため、似たような特性を持つ川の名前が被ることも少なくありませんでした。そのため、同名の川が並んでしまった場合は penke-(川上の)や panke-(川下の)と言った接頭詞をつけて区分していたようです。

ですから、penke- のあるところ panke- もあることが常なのですが、「上古丹」の近くには「下古丹」が見当たりません。これは一体どうしたことか……と思ったのですが……。

久々にわざとらしい前フリを書いてみました。さ、答え合わせ行きましょうか。西蝦夷日誌には次のように記されていました。

ウエンコタン〔上古丹〕(小川、人家有、土人家跡有)、此所大岩磯にて悪所と云義也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.19 より引用)

うはー、そう来ましたか(笑)。wen(悪い)を「上」に変えてしまったようですね。西蝦夷日誌では地形が厳しい故に「悪い」のだ、としていますが、永田地名解には違う解釈が記されていました。

Wen kotan   ウェン コタン   惡村 此處ノアイヌ疱瘡、疫疾ニ罹リ多ク死シ殘餘ノアイヌ他ニ逃避ス、故ニ此名アリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.142 より引用)

ふーむ。どうやらかつて疾病が流行したことがあってこの地を放棄したことがあったから「悪い村」なのだ、という説ですね。どうでもいい話ですが「惡」という字は新字体の「悪」よりも妙な迫力がありますよね。血管が浮いてるように見えるからでしょうか。

まぁ、実際の所どうだったかも若干気になるところですが、とてもこのお気楽な連載でカバーできる話でも無さそうなので、今日のところは地名の由来に留めることにしておきましょう。wen-kotan で「悪い・集落」だったと考えて良さそうです。

ちなみに、「上古丹」は川の名前として健在ですが、地名は「上浦」に改称されたようです。そのうち「上物の魚が良く上がったから」なんて地名由緒が出来たりして……(笑)。

久遠(くどう・くどお)

ku-un-tu?
弓・ある・岬
kun?-ru?
危ない・道
kunne-etu?
黒い・岬
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

古くから伝わる大地名で、大成町が属していた「久遠郡」は新たに北檜山町と瀬棚町を加えて新生「久遠郡せたな町」となりました。

大地名なので、記録も沢山残っています。まずは上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」から。

クドヲ
  夷語クンツ゚なり。グーウンツ゚ゥの則、弓を置ㇰ崎といふ事。扨、グーとは弓の事。ウンとは有ると申意。ヅゥとは山崎の事にて、昔時夷人共、熊亦は狐なと獵事のため、夷語にアマプといふ弓を此崎に置きたる故、地名になす由。且又、當場所本名はウシベツといふ由。則、生する川と譚す。近邊の内、最初に鯡の群来るゆへ此名ありといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.87 より引用)

ku-un-tu で「弓・ある・岬」と考えたようですね。続いては「北海道人」(但し三重県出身)の松浦武四郎さんによる「郡名之儀ニ付奉申上候條」から。

久遠(クドウ)郡 国渡 久利 九度等如何と存候
松浦武四郎「郡名之儀ニ付奉申上候條」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.113 より引用)

ちょいと飛ばして

  クドウはクウウンヅウの詰り也。クウは弓の名、ウンは在るまた置義也。ヅウは山崎の事にして、弓を置し崎といふ義。是を訳セバ弓置崎の義。左申候ハヽ解し難く、何故弓を置しやと不審も有べけれ共、此地惣テ獣を取るに今に仕掛弓に毒箭を用る事也。是則本邦ニも古しへ有し事にて、其故事ハ却て彼地に残りし事成べし。今是をヲキユミとも云べけれ共、是はヲヽユミ也と言説も有と栗原信充等は説れたり。
松浦武四郎「郡名之儀ニ付奉申上候條」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.113 より引用)

あー。どうやら上原説と全く同じだったようですね(引用する必要無かったかも……)。

一方、永田地名解にはかなり違う解が記されていました。

久遠(クドホ) 元名「クンルー」(Kun rū)危路ノ義、久遠村ノ岬端崩壊シテ通路危險ナルニ名ク「アイヌ」ガ「クンルー」ト發音スルヤ殆ンド「グンヅー」ト聞ユルヲ以て和人誤聞シテ「クドウ」ト呼ブ舊地名解ニ弓ヲ置ク岬ト譯シ松浦日志ニ弓形岬ト譯シタルハ並ニ誤聞ニヨリテ誤譯シタルナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.11 より引用)

永田っち、今日も若干の「上から目線」ですね。kun-ru で「危ない・道」と考えたようですが、肝心の kun を「危ない」と解釈する流儀を見つけられていません。

ちょっと気になる記述を見つけたので、山田秀三さんの「北海道の地名」も見ておきましょうか。

再航蝦夷日誌はこの岬を「本名クント(?)エトと云よし。クンは黒し,エトは岬也。黒サキと云こと也」と書いた。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.447 より引用)

孫引きで申し訳ありません。「クント」は確かに謎ですが、そう言えば東西蝦夷山川地理取調図にも「クント」と記されています。kunne-etu が大幅に略されて「クント」になった、と言ったオチなのかもしれないですね。

個人的な好みで言えば……個人的な好みで語るなという話もありますが…… kunne-etu で「黒い・岬」説を推したいところです。

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