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アイヌ語地名の傾向と対策 (639) 「和宇尻山・礼文塚川・キライチ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

和宇尻山(わうしり──)

wao-{sir-etu}
アオバト・岬
(典拠あり、類型あり)

定山渓と言えば札幌の奥座敷として有名な温泉地ですが、温泉街の北には「定山渓ダム」というダムもあります。定山渓ダムは「小樽内川」を堰き止めたもので、小樽内川沿いを遡ると朝里峠を経由して朝里川温泉に出ることができます。

ややこしいことに、小樽内川は小樽市域ではなく札幌市域を流れている上に、「オタルナイ湖」は小樽内川ではなく朝里川の「朝里ダム」にあります。なんとかならなかったものでしょうか……(汗)。


本題の「和宇尻山」ですが、定山渓の北を流れる「小樽内川」を源流方向に遡った先に「春香沢川」という支流があり、春香沢川を遡った先に「春香山」(標高 906.7 m)と「和宇尻山」(標高 856 m)があります。札幌市南区小樽市の間には「銭函峠」という峠がありますが、その西側に聳える山、ということになりますね。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」に、次のような記載を見つけました。

 和宇尻(わうしり)
 現在は海岸をはなれ国道に沿った部落名になっているが、もとは現在恵比須島と呼んでいる。海中の島についた名であり、ワウ・シリとは青鳩島という意味で、

句読点の位置が若干おかしいのは仕様です(ぉ)。確かに、張碓川が海に注ぐあたりの 150 m ほど東に「恵比須島」という島がありますが、もともとはこの島が wao-sir で「アオバト・島」だったようです。そう言われてみると、確かに「竹四郎廻浦日記」にも「ワウレー」という謎の地名?が記録されています。

また、永田地名解にも次のように記してありました。

Wao shir'etu  ワオ シレト゚  ワオ鳥ノ岬 ワオハ鳥名其啼聲ニ名ク此鳥會テ巢ヲ作リシヲ以テ岬名トナスト云フ

なるほど、wao-{sir-etu} で「アオバト・岬」と考えたのですね。永田方正は「恵比須島」を独立した島ではなく「岬」と見たようですが、確かに現在は陸続きになっているようなので、「岬」と見立てたのも理解できます。

ただ、念のため大正 5 年に測量された陸軍図を見てみたところ、(やはりと言うべきか)「恵比須島」は陸続きではありませんでした。また、「和宇尻」という地名は張碓ではなく、礼文塚川の西側の一帯を指していたようでした。これについては、概ね更科さんの記載通りと言った感じですね。

集落の名前としての「和宇尻」は過去のものになってしまったようですが、「和宇尻の奥にある山」の名前として残った、ということのようです。

礼文塚川(れぶんづか──)

{rep-un}-notka
沖の・岬
(典拠あり、類型あり)

かつて「和宇尻」と呼ばれていたあたりの東側を流れる川の名前です。明治の頃の地形図を見ても漢字で「礼文塚」と記されており、かなり古くから漢字表記が定着していたことを伺わせます。また、地図からは現在、支援学校のあるあたりが「歌棄」と呼ばれていたことがわかりました。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ハルウス」(張碓)と「ヲタシユツ」(歌棄)の名前が描かれており、その間に「レフンノツカ」とあります。どうやら「礼文塚」は「レフンノツカ」だったと考えられそうです。

いつになくチェックが慎重なのは、その意味するところに疑問があるからでして……。永田地名解には次のように記されていました。

Rep un notka  レㇷ゚ウン ノッカ  海岬
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.86 より引用)

謎な解釈の場合に限って饒舌になる補足も一切なく、極めてスッキリくっきりした解が記されています。{rep-un}-notka は「沖の・岬」と解釈できます(厳密には not-ka で「あご」とすべきかもしれませんが、最終的に「岬」を指すという点では違いはありません)。

ただ最大の問題は、礼文塚川の河口の東西には「海岬」と呼ぶべき地形が存在しない……というところです。辛うじて「岬」と呼べる地形は、前述の「恵比須島」しか存在しないように思われるのです。

ということで、「礼文塚」は移転地名じゃないか……とも考えられそうなのですが、そうなると現在の「礼文塚川」は、かつて別の名前で呼ばれていたということになります。そう考えて「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、あ、「シノマンヲタシユツナイ」という支流が描かれていますね。

これが「オーンズスキー場」の南側の谷のことであれば、本流である「礼文塚川」も「ヲタシユツナイ」だった可能性が出てきます。「歌棄」と言えば「江差追分」にも歌われた寿都の「歌棄」が有名なので、混同を避けるために「歌棄」の名を意図的に消そうとした……あたりかもしれませんね。

キライチ川

kitay-ot-i???
水源・多くある・もの
chiray-ot-i?
イトウ・多くいる・もの
(??? = 典拠なし、類型未確認)(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

札樽道銭函 IC の南東にある「チサンカントリークラブ」の中を流れる川の名前です。元々は「清川」(すみかわ)を経由して「小樽内川」(おたね──)に合流していましたが、現在は「星置川」に合流した後、まっすぐ日本海に注いでいます。

「東西蝦夷山川地理取調図」を見た限りでは、キライチ川は「マサラマヽ」と描かれた川に相当するように思われます。この川については、「東部作発呂留宇知之誌」には次のように記されています。

凡十丁も下るや
     ホシホキ
此川ヲタルナイ境目なるが、新道の有る処は凡是より十丁も上なるよし。此処にて獺(かわうそ)一疋を取りたり。同じく平地を下るまゝ
     マサリヲマフ
小川なり。等こゆる哉、浜の人家の屋根棟多く見え並ぴたり。しばしにて
     ゼニハコ
の東の端なる出稼小屋の傍に出たり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.83 より引用)

どうやら masar-oma-p で「浜の草原・そこに入る・もの」と読み解けそうですが、これは「キライチ川」の特徴と言うよりは、下流側の「清川」の特徴かもしれません。

「マサリヲマフ」の上流部が「キライチ」だったとすると、あるいは kitay-ot-i で「水源・多くある・もの」あたりだったかもしれません(すいません、全くの想像ですが)。

あるいは、永田地名解に「チライ オチ」という地名(おそらく川名)が記録されているので、chiray-ot-i で「イトウ・多くいる・もの」と考えられるかもしれません(もっとも、「チライ オチ」が現在の「キライチ川」を指しているとも言い切れないのですが)。

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