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夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (152)「探訪・北海道博物館(和人との戦い編・双六編)」

今週も懲りずに「北海道博物館」の総合展示室の話題を続けます。「蝦夷地のころ」と題された展示の 1 番目が「日の本・唐子・渡党」、2 番目が「アイヌ民族松前藩」、3 番目が「蝦夷地の産物コレクション」で、そして次が……

シャクシャインの戦い」です。1669 年と言いますから、江戸幕府では 4 代家綱の治世だったようですね。アイヌと和人の戦いとしては「コシャマインの戦い」「シャクシャインの戦い」そして「クナシリ・メナシの戦い」が有名ですが、「シャクシャインの戦い」がもっとも大規模な蜂起だった……ということになるのでしょうか。

静内と門別と言えばどちらも日高地方の町ですが、静内の「メナシクル」と門別の「シュムクル」の間で対立がありました。元はアイヌ同士の対立だった筈が、いつしか怒りの矛先が松前藩に向かい、道内で同時多発的にアイヌが蜂起することになります。

門別町」は随分前に「日高町」になったはずですが、説明文が昔のままですね。

静内にあるシャクシャインの像、実はまだこの目で見たことがありません。一度見に行きたいんですけどねぇ……。

「オムシャ」は日本語? アイヌ語

続いては時代劇のジオラマのようなものが出てきました。「オムシャ」と呼ばれる儀式を描いたものですが……。どうにも威圧的でいけ好かない感じがしますね。

「オムシャ」は日本語の「恩赦」に由来する……という話をどこかで聞いた覚えがあるのですが、ここではアイヌ語由来ということになっていますね。

蝦夷地の経営権を得た松前藩でしたが、広大な蝦夷地の経営を松前藩が単独で行えるはずもなく、やがて悪名高い「場所請負制」が広まることになります。

あの墓碑はどこかで見た墓碑

「場所請負制」のもと、和人によるアイヌからの搾取は更に悪辣さを増し、1789 年には「クナシリ・メナシ」(国後島羅臼町標津町の一帯)のアイヌが蜂起することになります。

クナシリ・メナシの戦いで処刑された 37 名のアイヌを弔う「イチャルパ」の写真が展示されています。

そしてその横にはクナシリ・メナシの戦いで殺害された和人 71 名の墓の写真が展示されているのですが……あれ、このお墓はもしかして……?

ああ、やはり。根室の野寒布岬で見かけたこのお墓ですね。北海道博物館に展示されている写真と比べると、随分と苔むした印象があります。

この蜂起のわずか 3 年後にはアダム・ラクスマンの乗ったロシア船が根室に来航します。こうやって見ると随分と小さな船ですね……(ミニチュアですから)。

双六!

そして、ガラッと毛色が変わったこちらの展示へ。「六雙覧一道新道海北」とありますが(左右を直そうよ)、1873 年に函館と札幌を結ぶ「札幌新道」が完済したことを記念して作成した「双六」とのこと。なるほど、函館から長万部・室蘭・苫小牧を経由して札幌に至るまでの 44 コマを双六にしたんですね。

この手の双六は他にもあったようで、こちらは「六双内案家業實區幌札」と題されたものです(だから左右を直そうって)。

この双六は札幌市内のお店を並べたもののようで、その中にある「横山歯科医院」を探そう! という楽しみ方もできます。電話番号が 3 桁だったことにも驚きですが、それ以前に電話があったこと自体に驚いてしまいます。

蝦夷地一周双六ゲーム!

この手の双六は明治時代の発明ではなく、なんと松浦武四郎も双六を制作・販売していたみたいです。函館から時計回りに「岩内」や「増毛」、「宗谷」や「紋別」を経由して「根諸」(根室)に向かうというもので、なんと根諸からは「アツケシ」に向かう本ルート以外に「クナシリ」「エトロフ」に向かう別ルートまで用意されています。

「アツケシ」(厚岸)からは「久摺」(釧路)、「十勝」や「シヤマニ」(様似)を経由して、そして「モロラン」(室蘭)、「ウス」(有珠)、「ヲシヤマンベ」(長万部)などを通って「上り」(函館)に戻ってくるという、実に本格的な北海道一周双六です。

この「双六推し」は何なんだ……と思ったのですが、あ、特別展示(2015/6/30~8/30)だったんですね。素敵な企画で楽しめてしまいました!

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