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夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (153)「探訪・北海道博物館(知られざる民族編)」

「北海道博物館」の総合展示室の話題を続けます。「人類の時代へ」「北海道独自の文化へ」「蝦夷地のころ」の次は「蝦夷地から北海道へ」と題された展示に移ります。

ちなみに手前に見えているのはお子様ランチ……ではなく、「開拓使札幌本庁舎」の模型です。

集団予防接種(!)

蝦夷地から北海道へ」、最初のテーマは「箱館開港」です。

こちらの絵図ですが、和人のところにアイヌが集められてなにやらわちゃわちゃした雰囲気に見えます。

一体何をしていたのか、と言いますと……

なんと、集団予防接種の現場だったのですね。江戸時代から明治時代にかけて、アイヌは人口を大幅に減らすことになりますが、苛烈な出稼ぎだけでなく、天然痘の流行も死亡率を高めたと言われています。この予防接種が何のためのものだったかは不明ですが、「奉行所の役人がアイヌに予防接種」というのはなかなかインパクトのある絵面ですね。

アイヌ人物誌

当時のアイヌの悲惨な状況は、松浦武四郎が克明に記録していました。

表紙をめくって中を開けてみると……サッポロに住んでいた「モニヲマ」というアイヌの記録が出てきました。

解説文には「妻をイシカリ場所の番人にとられてしまい」とありました。男手を出稼ぎに取られたり、また逆に妻を略奪されたりした結果、少子化が進み、アイヌの人口激減の大きな原因となったと言われています。

松浦武四郎は、万人受けする「紀行もの」を出版して収入を得つつ、一方でアイヌの窮状を克明に記録した資料を残していました。サッポロアイヌの「モニヲマ」も、松浦武四郎の記録に名を残せたことが、唯一の救いだったかもしれません。

気がつけばスウェーデン

箱館開港」の次は「北海道開拓のはじまり」です。あれ、この絵柄(双六)はどこかで見たような……?

「明治はじめに行われた北海道の分割分領政策」と題された説明がありました。明治政府には独力で開拓をすすめるだけの財政的な余裕がなかったため、1869 年(明治 2 年)に諸藩や寺などに蝦夷地を割譲していました。ただ、この政策は廃藩置県に伴いわずか 2 年で廃止された、とあります。

ただ、この地図を見ると、石狩に「伊達」や「亘理」といった文字があり、伊達邦直が石狩当別の開拓を始めたのが 1872 年だと言いますから、諸藩による分割分領政策が廃止された後にそのまま土着したケースもあったということなのでしょうか。

知られざる民族

当時は隣国ロシアとの国境が確定していなかったため、千島や樺太にも積極的に進出し、領有の既成事実化を図ろうとします。

この地図は南北が逆転していますが、この向きで正しいとのこと。伊能図とくらべると若干精度は見劣りするような気もしますが、とは言えかなり正確な形で描かれているようにも見えます。

北海道の東には、歯舞・色丹・国後・択捉の他にも得撫島知理保以島知理保以南島武魯頓島などが描かれているようですね。

この図の凡例ですが、「土人」(土着の人=アイヌ)、「ニクフン」(ニヴフ)と「ヲロツコ」(ウィルタ)のほか、「スメレンクル」と「タライカ」と言う記載もあります。「スメレンクル」は「ニヴフ」のことで、また「タライカ」は樺太の地名(ウィルタが多く暮らしていたところ)なので、認識に若干の混乱が見られるようです。

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