イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第十九信」(初版では「第二十四信」)を見ていきます。
繁栄
イザベラ一行は、上山を出発して真っ直ぐ北に向かいます。それにしても若干不思議なのが、何故山形の内陸部を北上しようと考えたのでしょう。日本海沿いを北上するという手もあったと思うのですが……。
すばらしい道を三日間旅して、六〇マイル近くやってきた。
第 19 信は山形県北部の最上郡金山町で記された……とあります。上山から金山まで東北中央自動車道経由で約 98.1 km とのこと。60 マイルは約 96.6 km なので、ほぼ合ってますね……(さすが!)。
山形県は非常に繁栄しており、進歩的で活動的であるという印象を受ける。上ノ山を出るとまもなく山形平野に入ったが、人口が多く、よく耕作されており、幅広い道路には交通量も多く、富裕で文化的に見える。
イザベラは新潟から山形への旅で極貧生活を見てきただけに、米沢盆地から山形盆地にかけての「明るさ」や「豊かさ」が殊のほか眩しく感じられたのでしょうか。
囚人労働
山形県と言えば三島通庸県令によって萬世大路などの整備が急ピッチで進められた……という印象があるのですが、三島通庸が県内の道路整備を進めるように告示を出したのが 1876 年とのこと。イザベラが山形にやってきたのは 1878 年ですから、三島通庸肝いりの道路を通った可能性もありそうです。
道路の修理は、漢字の入ったにぶい赤色の着物を着た囚人たちがやっていた。彼らは土建業者や百姓に雇われて賃銀をもらって働いているから、英国の仮出獄人に相当するものである。
なるほど、道路整備に必要な労働力は囚人労働で賄ったのですね。懲役の一環として働かされたのかと思ったのですが、土建業者から賃金の支払いを受けていたのですか……。
彼らは、囚人服をいつも着ていなければならないということ以外は、何も制限を受けていない。
明治時代の囚人労働は極めて過酷なもので、犠牲者も後を絶たなかった……という印象があるのですが、イザベラが目にした現場は随分と開放的なものだったようです。本当に制限が緩かったのか、それともイザベラの前では「本当の姿」を隠していたのかは何とも言えませんが……。
新しい橋
イザベラは、「坂巻川」に建設中の石橋を目にします。
坂巻川で私は、初めて近代日本の堅固な建築──すばらしくりっぱな石橋で、ほとんど完成するところであった──を見て、とても嬉しかった。
この「坂巻川」ですが、山形大学医学部の北側を流れる川のようです。ただ、当時の羽州街道は坂巻川ではなく、坂巻川が合流した後の「須川」を渡っていたように見受けられるので、イザベラが「坂巻川」としたのは「坂巻」にある「須川」の橋、の間違いだったようです。
私は、奥野仲蔵という技師に自己紹介をした。
原文では Okuno Chiuzo となっていましたが、これはどうやら「奥野忠蔵」が正しいようです(参考)。
イザベラは奥野技師に話しかけたところ、その場で設計図片手に説明を受けた上に、お茶とお菓子まで出してもらったとのこと。イザベラは滞在した各地で好奇の視線を浴びることが多かったので、偶には良い目を見ておかないと不公平と言うものですよね。
「常盤橋」の正体
さて、イザベラはこの橋について、これまた驚くほどの詳細を記録しているのですが、やはりと言うべきか「普及版」ではバッサリとカットされています。
このすばらしい道路に架かった、すばらしい橋は、長さ 192 フィート(約 58 m 52 cm)、幅 30 フィート(約 9 m)で、それぞれ 30 フィートの拡がりの五つのアーチを持っている。その橋には、両端と中心に 3 フィートの高さの青銅の尖塔を戴いた柱石のあるどっしりした石の欄干が付いている。
この文脈を読み解く限り、やはり橋は羽州街道が須川を渡るために架けられたもの、と考えられそうでしょうか。現在はほぼ同じ位置と思われる場所に「常盤橋」という名前の橋が存在します。
その石は 12 マイルも離れたところから採石され、それぞれが 8 人の労働者によって川岸まで運び降ろされて、その地点で下拵え[表面研磨]される。
さすがイザベラ姐さん、細かい情報も書き漏らしませんね。建設技法も重要ながら、これだけの橋を建設するためにどの程度のリソースを必要としたのか、しっかりと記録しています。
見積もり費用は 1 万 6000 円、ざっと 3000 ポンド強かかっています。この橋は、設計と工事が、外国人の手を借りずに、日本人の手により首尾よく建設されたものだという点で最も興味深いものです。
仮にこの話が正しいとすれば、今後、欧米諸国が同等の工事を請け負うチャンスが激減する可能性が出てきます。残念ながらこのコストが適正なのか、あるいは激安だったのかは良くわかりませんが、おそらく激安だったのでは無いでしょうか。
「彼ら」は何処に
ところで、「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」を読んでいて、ちょっと難しそうな文章が出てきました。
私は技師にその仕事に対しておおいに敬意を表しましたが、疑いなく、私たちがこの繁栄している県に入って以来、歩いたところとその話の自慢を最も面白く取り入れている伊藤を通しての伝達によって疑いもなく、彼らが失ったものは何もないと思います。
うーん、何か引っかかる感じがしますね……。ということで、原文を参照してみましょうか。
I paid the engineer many compliments on his work, and doubtless they lost nothing by transmission through Ito, who has adopted a most amusing swagger of walk and speech ever since we entered this thriving ken.
あっ、これは……。誤訳の疑いアリかもしれません。時岡敬子さんの訳では次のようになっていました。
わたしは技師に工事についての賛辞をいっぱい述べましたが、その賛辞はこの栄えている県に入って以来、とてもおかしな威張った歩きぶりと話しぶりになっている伊藤を介して、少しの不足もなく伝えられたようです。
they をどう訳すかが問題だったようです。文脈からは they = many compliments と解釈すべきだったのでしょうね。それにしても、自分のことのようにドヤ顔で振る舞う、後の「通訳の元勲」の姿が微笑ましいですね。
「常盤橋」のその後
「常盤橋」は 5 連アーチの石橋でしたが、木橋ではなく石橋としたことについては、イザベラは次のように評価していました。
しばしば起こった出水の間に橋が洗い流されてしまうことは、非常な損失と不便さの元凶です。川は数え切れないほどあり、貧乏な地方では、このような構築物が普通のものになることは、主要な道路でさえ期待されるべくもないのですが、コンクリートを詰めた鉄のシリンダーは多くの場所で、基礎がない木製の桟橋より長期的には安くつくことでしょう。
平たく言えば「安物買いの銭失い」からの脱却と考えた、と言ったところでしょうか。頑丈な橋を一度架橋してしまえば、多少の大水にも耐えることができるので、結果的に TCO を削減できる、という考えのように見えます。
ただ、Wikipedia には次のように記されていました。
1890年(明治23年)に出水で落橋してしまったため、現存していない。
(汗)……。
落橋の数年後に木橋が架けられ、昭和に入っても使用された。
あきまへんやん……。
www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International