やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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群別(くんべつ)
浜益区浜益の北に位置する地名で、同名の川も流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホンクンヘツ」という名前の川が描かれています。
「小石川」説
「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。
廻りて(二十六町四十二間)ポンクンベツ〔群別〕川筋(川幅五六間、橋あり、番や、かやぐらあり)、向に新道出口あり。此澤目芒(すすき)原にて廣く、地味至て宜しく、名儀、譯して小石川の義なり。
どうやら「ポンクンベツ」だったものが、なぜか「ポン」が取れて「群別」になってしまったみたいですね。「小石川」という意味だと言うのですが……。
「危ない川」説
「ポン」が取れたのは比較的早かったようで、永田地名解には次のように記されていました。
Kun pet クン ペッ 危川
これらの解に対して、山田秀三さんは次のように記していました。
西蝦夷日誌は「ポンクンベツ。名儀,訳して小石川の義なり」と書いたが,クンに小石の意があるのだろうか。
そうなんですよね。続きもありまして……
永田地名解は「クン・ペッ。危川」とした。クンに危ないという意があったのだろうか。
うーん……。いや、全くごもっともなんですが……
「クンヌ」は危険だったのか
ここまでは既存の説を全否定していたように見えるのですが、ここから少し話がややこしくなります。
(バチラー辞典は,クンヌ,クンル,クントゥを危険なると訳している)。
手元の資料で確かめてみると、金田一京助の「北奥地名考」でも「クンルー」が「危路」であると記されていました。ただ、それ以外の資料にはこれと言った記載を見つけることができていません。
もしかしたら、「クンヌ」は kunne(「黒い」あるいは「暗い」)なのかもしれません(暗い夜道は危ないですからね)。
群別川はごろた石の上を流れる急流である。
むむ、これは……。これだと「小石川」であり、更に「危川」でもある、ということになっちゃいますね……。
「帯状に岩が見えている崖」説
NHK 北海道本部・編の「北海道地名誌」には、次のように記されていました。
群別川(ぐんべつがわ) もとアイヌ語で「ポン・クン・ペッ」といったが,ポンを略してクン・ペッになったが,クン・ペッは「クッ・ウン・ペッ」で帯状の崖のある川の意と思う。
「が、が、思う」の更科節が絶賛炸裂中ですね。kut-un-pet で「帯状に岩が見えている崖・ある・川」という可能性も十分考えられるかと思います。
永田地名解では「危川」と訳している。崖があって危険な川であったからかもしれない。
ふーむ。どのように考えれば「クン」を「危ない」と捉えられるか、という試案……ですよね。
「黒い」説
「角川──」(略──)を眺めてみたところ、こんな風な記載を見つけました。
地名は,アイヌ語のポンクンベツ(小さな黒い石のある川の意)に由来する(村勢要覧)。
「ポンクンベツ」を「小さな黒い石のある川」と解釈するのは想像による補完が必要になると思うのですが……ああ、なるほど。「西蝦夷日誌」の「訳して小石川の義なり」に kunne の意味を被せてきたということですかね。
「黒い石のある川」というのは逐語訳としてはあり得ない解ですが、案外これが正解に近いのかもしれません。素直に kunne-pet で「黒い・川」と考えて良いのではないでしょうか。
幌(ほろ)
浜益区群別の北に「市営群別牧場」がありますが、更にその北側に「浜益区幌」の集落があります(同名の「幌川」もあります)。現在の「群別」「幌」という地名からは関係性が見いだせませんが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホロクンヘツ」と描かれていました。「群別」が「ホンクンヘツ」でしたので、これだと両者の関係性は一目瞭然ですね。
「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。
過て(十二町廿九間)ポロクンベツ〔幌〕(川幅七八間、橋架たり、番や、かやくらあり)、名義、大なる小石川の儀。
永田地名解にも記載がありました。
Poro kun pet ポロ クン ペッ 危キ大川 增毛山道入口明治十五年雄冬群別二村ヲ合セテ群別村トス
永田方正が地名調査を行った時点で既に「ポンクンペッ」が「クンペッ」になっていたようですが、一方で「ポロクンペッ」はそのままだったようですね。大正時代に測図された陸軍図では「幌」「幌川」になっていたので、明治から大正にかけて、もしかしたら「幌」が漢字で表記されるようになった頃に「クンペッ」が省略されるようになった……と言ったところでしょうか。
ということで、「幌」は poro-{kunne-pet?} で「大きな・{群別川}」と見て良いかと思います。
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