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「日本奥地紀行」を読む (117) 院内(湯沢市) (1878/7/18)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信」(初版では「第二十五信」)を見ていきます。

石の縄(蛇籠・竹蛇籠)

イザベラ一行は院内(秋田県湯沢市)で一泊することにしたようです。宿の感想を記す前に、院内の集落で見かけた事柄について記していますが、「普及版」ではバッサリとカットされていました。最初のセンテンスはカットする必要が無いような気もしますけどね……。

その地域には、寺院と仏陀と彼の弟子たちの像が非常に多い。多くの場所に、文字のない多数の太陽と月を粗く彫った石が真っ直ぐに立ててある。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺中央公論事業出版 p.86 より引用)

「太陽と月を粗く彫った石」ですか……。うーん、一体何なんでしょう。案外、大湯のストーンサークルみたいなものだったりして……。それはそうと、ここまで「ですます調」だったのが急に「である調」に変わりましたね。

他の精巧な趣向のなかに、通常でない数の縄か石の枕状のものがあり、それらは日光からの道々ずっと堤防として使われていた。これらはさまざまな長さで直径が 2~4 フィートの円筒で、竹を裂いたものが円筒形の籠状に編まれたもので作られていて、6 ポンドの重さの石の散逸を防ぐほど充分細かく編んである。それらは水の作用で丸くなった川原石がいっぱい入っている。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.86 より引用)

これも最初は何のことを言っているのか良くわからなかったのですが、これは「蛇籠」(じゃかご)と呼ばれるもので、竹で編んだカゴに小石を詰めて、それらを並べることで護岸を行った、ということのようです。

4 フィートは約 1.22 m ですから、ドラム缶くらいのサイズでしょうか。これが「蛇のように」見えるということは、長さは相当あったと言うことになりますね。海岸を波による浸食から守るために消波ブロックを並べることがありますが、それの河川版と考えても良いのかもしれません。いやー、「日本奥地紀行」は勉強になりますね……(汗)。

興味あるもの

院内の宿屋で一泊することにしたイザベラですが、例によって例のごとく、周りからの好奇の目に晒されることになったようです。

 院内の宿屋はきわめて心地よい宿ではあるが、私の部屋は襖と障子だけで仕切ってあるので、しょっちゅう人々がのぞきこむのであった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.235 より引用)

イザベラは、このお約束のような事象について、次のように分析していました。自身が「外国人」であること、そして日本人とは異なる風習が注目を集めるのだろう……とした上で、追加で次のような点も挙げていました。

さらに私の場合には、ゴム製の風呂や空気枕、なかでも白い蚊帳をもっていたことである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.235 より引用)

そう言えば、イザベラは風呂も携帯していたんでしたね。そして「白い蚊帳」が注目を集めた理由として、次のように記していました。

日本の蚊帳は緑色の重い粗布でできており、私の蚊帳をとても賞めるので、ここを出るときには、頭髪とともに編むようにその端切れをあげるのが、きっと彼らにとって何よりの贈り物となるであろう。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.235 より引用)

ふむふむ。軽くて高性能なものは、いつの時代でも称賛されるということなのですね。「頭髪とともに編む」というのが今ひとつピンと来ないので、原文を見ておきましょうか……。

that I can give no more acceptable present on leaving than a piece of it to twist in with the hair.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)

うーん、確かに「頭髪とともに編む」と読めますね。やはり素直に「頭髪を原料にして蚊帳を編め」という理解で良いのでしょうか。

隣室には六人の技師がいた。彼らは私が通ってきた峠を測量していて、トンネルが掘れるかどうか調査している。それができたら、人力車で東京から日本海沿岸の久保田(秋田)までずうっと行けるであろう。また少し費用を増せば、二輪馬車でも行けるであろう。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.235 より引用)

イザベラが「私が通ってきた峠」と記しているのは「雄勝峠」のことと考えるのが自然でしょうね。ただ、羽州街道のトンネルが開通したのは 1955 年とのことで、イザベラが雄勝峠を越えてから 77 年も経過した後の話です。

雄勝峠には官営鉄道の「奥羽南線」も通っていて、峠は「雄勝トンネル」で抜けていました。ただ、「雄勝トンネル」を含む新庄-院内間の開通は 1904 年とのことで、これも 26 年も後の話ということになります(奥羽本線で最も古くから存在する区間は 1894 年の開業なので、これもイザベラが旅してから 16 年後の話です)。

隣室の「六人の技師」は、やはり羽州街道の峠越えについて検討していたのかもしれませんね。検討の結果、トンネルの掘削は困難だと判断したのかもしれません。

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