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北海道のアイヌ語地名 (927) 「伊奈牛川・背谷牛山・野上」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

伊奈牛川(いなうし──)

inaw-us-i
木幣・ある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)

瀬戸瀬と丸瀬布の間で湧別川に合流する北支流です。合流点から 1 km ほど西(上流側)には石北本線の「伊奈牛仮乗降場」があり、1987 年に JR 北海道が発足した際に駅に昇格したものの、僅か 3 年後の 1990 年 9 月に廃止されてしまいました。

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。

又十丁も行て
     イナウシ
右の方小川有。此川口に小山有りけるが、爰に神霊有るよし申伝え、昔しより土人等上り下りの時に木幣を削りて奉り有り、よって号しとかや。イナウウシの詰りたる也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.264 より引用)

ちなみに「イナウシ」の一つ前が「タン子ヌタフ」でした。明治時代の地形図には「イナウシ」あるいは「イナウウシュ」とあったので、「イナウウシの詰りたる也」と見て間違い無さそうですね。inaw-us-i で「木幣・ある・もの(川)」と見てよいでしょうか。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 伊奈牛(いなうし) 昭和 8 年北見鉱山を買収した住友が鴻之舞の支鉱として経営したところ。この鉱山ははじめ金を目的としたが戦時中銅亜鉛の採掘をあわせておこなうようになり昭和 38 年迄つづいた。「イナウ・ウㇱ」は木幣多いの意。
NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.486 より引用)

また、更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 伊奈牛(いなうし)
 鴻之舞金山の支鉱のあったところ。アイヌ語のイナウ・ウㇱで、祭壇のあったところの意であるが、何の祭壇か不明。

そう言えば inaw は半ば機械的に「木幣」と解釈してきましたが、「祭壇」と見ることも可能だったでしょうか。……と思って手元の辞書類を確認してみましたが、見事にいずれも否定的でした。やはり inaw は「木幣」と解するべきで、「幣場」は inaw-cipainaw-san とするのが一般的のようです。

背谷牛山(せたにうし──)

{seta-ni}-us
{エゾノコリンゴの木}・ある
(典拠あり、類型あり)

瀬戸瀬の南東に聳える標高 624.7 m の山の名前で、同名の川(背谷牛川)が山の東側を流れています。昨日の記事でおおよそ語り尽くした感もありますが……。

明治時代の地形図には、現在の「瀬戸瀬川」の位置に「セタニウㇱユト゚ルコツ」という名前の川が描かれていました。ただ戊午日誌「西部由宇辺都誌」では「セタン子シトルコツ」という川が生田原川の河口と瞰望岩の間の「右支流」として記録されていて、現在の瀬戸瀬川に相当する場所には「セトシ」という左支流が記録されていた……というところまでは既にご紹介した通りです。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 背谷牛山(せたにうしやま)
 遠軽町瀬戸瀬との境の山。セタンニ・ウシでの木の多いの意。

「背谷牛山」は {seta-ni}-us で「{エゾノコリンゴの木}・ある」と考えて良さそうですね。興味深いことに、「背谷」を {seta-ni} で「エゾノコリンゴの木」とする考え方は、松浦武四郎以来特に異論の無いまま引き継がれています。

改めて明治時代の地形図を見てみると、現在の「背谷牛山」の北北東、「二林班川」と「三沢川」の間の支峰(標高 424 m)あたりに「セタニウシ山」と描かれています。現在の「背谷牛山」と明治時代の「セタニウシ山」は親子関係にあるものの、「セタニウシ山」は「子である山」の名前として描かれている点に注意が必要です。

明治時代に入ってから、何故か「『セトシ』は『セタニウㇱユト゚ルコツ』の省略形である」という誤解(だと思われる)が広まってしまい、ついには地形図にもそう描かれてしまったと考えられるのですが、「セタニウシ山」という山名が「創造」されたのもその前後……おそらく「セトシ」が「セタニウㇱユト゚ルコツ」に変化してしまった後?なのかな、と思い始めています。

野上(のがみ)

nup-pa-ta-an-nay
野・かみ・そこに・ある・川
(典拠あり、類型あり)

旭川紋別自動車道の「遠軽 IC」と、道の駅「遠軽 森のオホーツク」のあるあたりの地名です(遠軽町野上)。明治時代の地形図には、現在の道の駅のすぐ東のあたりに「野上駅」と描かれていますが、このあたりに「野上駅逓」があったとのこと。かつての駅逓からそれほど遠くないところに「道の駅」ができたというのも、どことなく先祖返りのようで面白いですね。

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし凡十丁も上りて
     ヌツハタンナイ
(左)の方小川、其上に山の岬出来りたる有。名義は本名ヌツハケタと云よし。其訳山の尾の事なりとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.263 より引用)

ありがたいことに頭註に詳細が記されていました。

ヌツパ 野の土手、野の頭(川下)
タ・アン・ナイ の方にある川
ヌツ・パケ 野の上手
タ の方
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.263 より引用)

「ヌツハタンナイ」は nup-pa-ta-an-nay で「野・かみ・そこに・ある・川」と解釈できそうです。「野上」は「野のかみ」を意訳した地名だ、と言えそうですね。

そして「ヌツハケタ」は nup-pake-ta で「野・頭・そこに」と読めそうです。道の駅の南側の北斜面に「ロックバレースキー場」がありますが、この北斜面を構成する山が北東にせり出していることを形容して、「野・頭・そこに(・ある・川)」と呼んだ……ということでしょうね。

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