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「日本奥地紀行」を読む (148) 虻川(潟上市) (1878/7/27)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十五信」(初版では「第三十信」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

醸造業の繁栄

数日ぶりに移動を再開したイザベラでしたが、体調不良のため 20 km ほど北の虻川(潟上市)で一泊することになってしまいました。例によって群衆の好奇の目に晒されながら夜を過ごすことになり……

 朝早く、同じ憂鬱な顔をした群集が現われた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.280 より引用)

いやぁ、群衆の皆さんもマメですねぇ……(汗)。

暗い小雨はものすごい大雨となり、十六時間も続いた。この日の旅行で見たものは、低い山と広々とした水田の谷間、ひどい道路と美しい村々、多くの藍草で、通行人はほとんどいなかった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.280 より引用)

天候不順のために久保田(秋田)の出発を数日遅らせたイザベラでしたが、夏の大気は不安定ということなのか、結局大雨に降られてしまったようです。ただ、面白いことに「美しい村々」を見た、とありますね。

人々は水田で二番目の草とりをしていた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280 より引用)

「二番目の草とり」とは何だろう……という疑問が湧くのですが、とりあえず原文は次のようになっていました。

people are puddling the rice a second time to kill the weeds,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)

確かに「二度目の草とり」ですね……(ぉ)。

盛岡や他のいくつかのこの地方の村々で気がついたことは、大きくて高くしっかり造られた家が、士手で囲まれ、金持ちの家らしく見えるときには、その家はかならず酒を醸造するところであるということである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280-281 より引用)

あれ? イザベラは今回の旅では盛岡に立ち寄っていない筈ですが……。原文では次のようになっているので……

At Morioka and several other villages in this region
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)

当然ながら、この "Morioka" は「盛岡」とは限らないわけです。この "Morioka" は横手市西部(旧・平鹿ひらか大雄たいゆう村)の森岡地区(通称?)のことではないか……という説もあるようですが、イザベラは横手の北にある仙北郡美郷町でお葬式に出ていた筈なので、旧・大雄村のあたりを通ったとは考えづらいんですよね。

JR 奥羽本線鹿渡駅(山本郡三種町)の北隣に「森岳駅」という駅があるのですが、かつてこのあたりに「森岡村」が存在していたそうです(「森岡村」の成立は 1889 年ですが、「森岡」という地名はそれ以前から存在していたとのこと)。

何故か駅名は「森岳もりたけ」になってしまったのですが、これは日本鉄道(当時)の「盛岡駅」との混同を避けるためだそうで、つまり「森岳」も「もりおか」と読んでいた……ということになりますね。そして後の訳者は案の定 Morioka を「盛岡」と誤訳してしまった……というオチだったようです。

ということで、本題に戻りましょうか。

看板を見ると、酒を売るばかりでなく、酒を造っていることが分かる。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)

ふむ。いわゆる「造り酒屋」のことですね。

酒屋の看板には多くの種類があって、長年使い古した樅のうす汚い小枝から、常に新しく取りかえられる元気のよい松の枝までいろいろある。英国で、昔、酒屋の看板であったのは同じように蔦の枝であったのもおもしろい。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)

この指摘については「ほほう」という感想しか持ち合わせないのですが、この相似には何らかのロジックがあるのか、それとも単なる偶然なのか。何らかのロジックが働いていたと考えるほうが面白そうですが、果たして……?

日本への酒の伝来

ここからは、「日本奥地紀行」の「普及版」ではバッサリとカットされた内容です。

 私は、当地では、とにかくサケの話をさけて通るわけにはいきません。日本において、サケは英国人がビールなしでいられないという以上のことで、特別な場合に定められた量の酒を飲むことはこの帝国の伝統的礼儀の一部なのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺中央公論事業出版 p.108 より引用)

そう言えば、結婚式でも花嫁が飲みまくるシーンがありましたよね……(参考)。「帝国の伝統的礼儀」という表現はちょっと笑えますが、確かにそうなのかもしれません。

酒造業は低温が要求されるため、11月の初めから、2月の末までのみがそれを造る時期にあたり、今は閑散期です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺中央公論事業出版 p.108 より引用)

ほほう、そうなのですね。日本酒のイロハをイザベラに教えてもらうというのは、ちょっとシュールな話ですが……(汗)。

 酒は 2600 年間にわたって造られ続けてきたと言われており、紀元 400 年に、二人の酒造り(杜氏)が中国から渡来し、改善された中国の製造法が導入されましたが、それはほんのわずかの量が家庭内で造られるだけでしたが、わずか 300 年後には、最高の酒の生産地である大阪に大規模に供給する酒造業が設立されるまでになっていました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)

2,600 年前と言えば弥生時代ですが、神武天皇が即位したとされる時期に近いのは偶然なのか、それとも……? 

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