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北海道のアイヌ語地名 (1179) 「久保川・オタトンベツ沢川・薄別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
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久保川(くぼ──)

ku-o?
仕掛け弓・そこにある
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

牛首別川の南支流です。本来の牛首別川は現在の「下牛首別川」を経由して十勝川に合流していましたが、1955(昭和 30)年頃に「牛首別新川」が開削されて、「農野牛川」の下流部分を乗っ取る形で十勝川に注ぐように河川改良されました。

この河川改良に伴い、旧牛首別川(=下牛首別川)に合流していた久保川も「牛首別新川」(=牛首別川)に合流するように流路の付け替えが行われています。久保川の中流域には「二宮」集落がありますが、かつては「久保」と呼ばれていました。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ウペットㇺ子ㇷ゚」という名前の川が描かれていました。東隣に「モウペットㇺ子ㇷ゚」という川が描かれていて、こちらは現在の「砂川」に相当すると考えられます。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モウヘツトル」(=牛首別川と思われる)とその支流が描かれていますが、「ウペットㇺ子ㇷ゚」と思しき川名は見当たりません。

「久保」は和名のようにも思えますが、『十勝地名解』(1914) には次のように記されていました。

ク ボ
 「クオ」の誤称にして、機弓すなわちアマッポーのことれば、ここ古昔これを仕掛けて熊などを取りしところなるべし。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.71 より引用)※ 原文ママ

ほう……。確かに壮瞥町の「久保内」も ku-o-nay で「仕掛け弓・そこにある・川」だとされていたので、同型の地名ではないか……ということですね?

前述の通り、『北海道実測切図』にはそれらしい川名が見当たりません。「久保」が ku-o で「仕掛け弓・そこにある」としたのも『十勝地名解』だけなので、少々疑わしい感じもあるのですが、よく見ると「東西蝦夷──」には「クカルシナイ」という支流が描かれていて、永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Ku kar'un nai   ク カルン ナイ   弓ヲ作ル澤 水松多シアイヌ伐リテ弓ヲ作ル

ただ『北海道実測切図』では「ウシㇱュペッ」(=牛首別川)の上流と、「パナクシウシㇱュペッ」(=小川)の上流にそれぞれ「クカルウㇱュナイ」という支流が描かれていて、これは「久保」ではないかと思われる「ウペットㇺ子ㇷ゚」とはかなり位置が離れています。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

今更ですが表にまとめてみましょうか。

東西蝦夷山川地理取調図
(1859)
永田地名解
(1891)
北海道実測切図
(1895 頃)
地理院地図
モウヘツトル モ ペット゚ル/
ウシシュ ペッ(*1)
ウシㇱュペッ 牛首別川/
下牛首別川(*2)
- - モウペットㇺ子ㇷ゚ 砂川
- - ウペットㇺ子ㇷ゚ 久保川
クカルシナイ ク カルン ナイ クカルウㇱュナイ(*3) -
ヌツキ ヌㇰキ ヌㇷ゚キ -

*1 東西蝦夷山川地理取調図の「モウヘツトル」に相当する「モ ペット゚ル」と北海道実測切図の「ウシㇱュペッ」に相当する「ウシシュ ペッ」の記載がそれぞれ存在する
*2 牛首別川は河川改修の結果、下流側が「下牛首別川」に切り離された
*3 現在の牛首別川の支流と、パナクシウシㇱュペッ(現在の「小川」)の支流に同名の川が存在したように描かれている

少なくとも『北海道実測切図』を見た限り、「ウペットㇺ子ㇷ゚」(=久保川)と「クカルウㇱュナイ」は全く異なる位置に描かれているので、「久保川」が ku-o であるとは言えないのですが、『北海道実測切図』に描かれた「クカルウㇱュナイ」と「ヌㇷ゚キ」は相当山奥に位置していて、「東西蝦夷──」が「モウヘツトル」(=牛首別川と考えられる)の支流としてこの二つだけを描いたと考えるのも相当不自然です。

つまり『北海道実測切図』の「クカルウㇱュナイ」と「ヌㇷ゚キ」の位置は疑わしいのではないか……と考えたくなります。「久保」が ku-o だったかどうかはなんとも言えませんが、その可能性はゼロでは無さそうに思えます。

川名に由来する「久保」という地名が、当地の開拓に尽力した二宮尊親(二宮尊徳の孫)に由来する「二宮」にあっさり置き換えられたのも、「久保」が人名由来ではなかった可能性を想起させる……かもしれません(もし「久保」が人名由来であれば、「二宮」への改名は失礼に当たるので)。ただ「窪地」=「久保」という可能性もあるので、ku-o 以外の可能性も十分残ります。

オタトンベツ沢川

o-tat-un-pet???
河口・樺の樹皮・そこにある・川
(??? = 記録なし、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

久保川の上流部で西から合流する支流です(久保川の東支流に「コオタトンベツ沢川」もあり)。『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川は描かれているものの、残念ながら川名の記入はありません。

ota は「砂浜」で、これは「河原」を指すこともあります。ota-tom-pet で「砂浜・中央・川」と読めなくもないですが、もしかしたら o-tat-un-pet で「河口・樺の樹皮・そこにある・川」あたりでしょうか。

ただ tat-us で受けるのが一般的で、tat-un というのはちょっと記憶にありません。「オタトベツ」が「オタトベツ」に誤記された可能性もあるかもしれません。

o-tat-us-pet であれば「類型あり」と言えるのですが、tat-un という例に記憶が無いので「類型未確認」としました。

ちょっと気になるのが「久保川」の旧称と見られる「ウペットㇺ子ㇷ゚」の存在です。両者は似ているようでもありますが、「ウペットㇺ子ㇷ゚」が「オタトンベツ」に化けるのは難易度が高そうにも思えます。

「ウペットㇺ子ㇷ゚」は u-pet-o-mu-ne-p であれば「互いに・川・尻・塞がる・ような・もの(川)」と読めるでしょうか。下流に土砂を運搬し、牛首別川とともに互いの河口を埋めようとするような川だった……とかでしょうか。

薄別(うすべつ)

usis-us-pet?
鹿の足跡・多くある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

豊頃町西部、牛首別川と支流の「小川」の流域一帯の地名です。『北海道実測切図』(1895 頃) では「ウシㇱュペッ」(=牛首別川)と「パナクシウシㇱュペッ」(=小川)が描かれていて、それらの支流として「クカルウㇱュナイ」「ヌㇷ゚キ」「ニセイチャラクㇱュナイ」「ソーウㇱュナイ」「ニセイクシュオマナイ」などが描かれています。

角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

地名はアイヌ語のウシシュペッに由来し,「鹿の蹄跡の多い川」の意と思われる。

これを見る限り「薄別」と「牛首別」はどちらも usis-us-pet で「鹿の足跡・多くある・川」だった可能性がありそうですね。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には何故か「牛首別川」の位置に「モウヘツトル」と描かれているのですが、もしかしたら「ウシシュペッ」は(「薄別」のあたりの)上流側の川名だった可能性もあるかもしれませんね。

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