イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第三十信」(初版では「第三十五信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
流布している迷信
イザベラは「日本の北部の迷信には限りが無い」として、迷信についての話題で何ページも埋めることができると豪語していました。
人々は、それらの話をすることを好まないわけでもないし、伊藤は、彼らをばかにして笑うが、自分は、やっぱりお守りをつけているのです。
うーん。確かに日本人は「おまもり」を買いますし、良くないことが続くと「お祓い」をすることもあります。家屋などを建設する前には「地鎮祭」も行いますが、これは「迷信」と呼ぶべきなのかどうか……。少なくとも「護符」のようなものは、日本以外でも普遍的に存在してそうな気もするのですが。
これらの袋は 50 銭から 5 銭のありとあらゆる値段で、大抵は金や絹糸の刺繍を施した赤い布で出来ています。女性たちは、魔よけを風呂に入るとき以外は一瞬も離さず、昼も夜も、外から見えないように特別に作られた帯のなかに入れています。
これは神社の「おまもり」の話のようですね。現代の日本においては「おまもり」を常に携帯する人は少なくなったと思いますが、実はそれほど少なくないような気もしてきました。
護符を落とすことは猶予のない死の予兆を意味します。
なんと……。吉凶を占って良くない結果が出た場合は、新たに行動を起こすのを自粛するというのであれば、最終的に良い結果に結びつくこともありそうな気もしますが、「自分はもうすぐ死ぬ」という自覚を与えるのであれば、自棄に走ったり良からぬことを企みそうな気もします。神社に詣でると助かるとか、何らかの救済対策があれば良さそうですが……。
この習俗は、あまりに広く行われているので、伊藤はどこの宿屋 でも、私がどんなお守りを、どんな風につけているかと訊かれます。
これは「異人さん」に対する興味からだと思いますが、今だと流石に「どんなお守りをつけているか」という疑問は出てこないですよね。現代風に置き換えると「どんな宗教を信仰していますか?」あたりかもしれませんが、これは個人のプライバシーに触れる事柄なので、こういった質問はすべきでは無いような……
身につけている「おまもり」についての質問は、もう少しカジュアルなもので、たとえば「どんな香水をつけていますか」くらいに捉えるべきなのかもしれません。
より年取った女の人のなかには、帯の下に瘤になるほど沢山の護符を入れている者もいます。
あー……。これは理解できてしまいますね(汗)。ある程度裕福になれば、歳を取るほど神仏に縋りたくなっても不思議はありません。
北部の村々によっては、お守りは、束髪 の髯を結いあげる硬いあて布の中に縫込まれているのです!
これは中々合理的な設計(?)ですね。今だとスマホのケースに護符代わりのシールを貼れば、似たような機能を得られそうにも思います。
男性は伊勢神宮のお守りを携帯していることが多く、職種や「階級」によってその格納場所が異なるとのこと。
別当 や多くの下級労働者は首にお守りをぶら下げています。しかし、中産階級の男たちはタバコ入れ袋や袖の中に潜ませています。
これもいつものことですが、イザベラは良く観察していますよね。もちろん伊藤の知恵を借りた部分もあるのでしょうが、イザベラ自身の興味や観察眼があって初めて成り立つ内容だと感じられます。これらの内容は「奥地紀行」とは直接関連は無いとも言えるので、「普及版」では見事にカットされているわけですが……。
「おまもり」とその効用
イザベラは「護符」としての「おまもり」について、いくつかの例を挙げていました。
ケースに入った小さな仏像はしばしば袖の中に入れて持ち歩かれ、米を作る百姓たちはしばしば彼らの特別な神である稲荷 の象徴である小さなキツネの像のために同じ入れ物を用いています。
ふむふむ……と思ったのですが、これ、よく見ると「神仏習合」ですよね。
日本のヴィーナスである弁天は、娘たちに美と魅力を与え、他の神様は蛇から身を護ってくれるのです(日本の女性は誰もが、このうえなく蛇を怖がり、極端に恐れています)。
現代でも蛇を怖がる女性は少なくないと思いますが、イザベラの書きっぷりを見る限り、その怖がり方は現代の比では無さそうにも思えます。夜に蜘蛛を見かけるのと似たような感覚だったのでしょうか。一言で言えば、まさに「迷信」そのものなんでしょうけど。
また一方では、キツネのたくらみから身を護り、また他方では幸運をもたらし、また溺れることや不慮の出来事から救い、さらには、子宝を授け、愛らしくする、などと無限にありとあらゆることをもたらす。
だんだんと「壺」のようになってきましたね(汗)。でもまぁ、膨大な高値で「販売」される「壺」よりは、雑誌の裏表紙に出てくる謎の「開運グッズ」にノリが近いかもしれません。「僕も○○○のおかげで恋人ができました!」みたいな感じの。
これらの護符や彫像は、そもそも、寺からもらうもので、僧侶の資金源なのです。
あー……。イザベラさん、ついにバラしてしまいましたね(汗)。となると、これらはやはり「○○○のおかげで恋人ができました」よりは「壺」に近い位置づけなのかも……。
このごろ田園で私はいつも、文字が刻まれた紙が棒からぶら下がっているのをみかけます。これらの護符は、害虫から護るために寺から授けられたのです。
害虫ではなく「害鳥」から田畑を守るためには、昔は「案山子」が立てられて、その後大きな目玉模様のヘリウム風船?も一世を風靡しましたが、最近は何が流行しているのでしょう……?(超音波を流すとか?)
仏教の僧侶は彼らが割に合う利益を得るよりどころである迷信を支持し、それを保護しています。
イザベラは「仏教の僧侶は自らの利益の拠り所として迷信を支持している」とした上で、次のような具体例を述べていました。
病気に効く神さま[ビンズル]にこすりつけられ、病人の所に持ってこられた小布片は、ある状況下で、自分で直接に拝むのと同じ効力を発揮すると思われています。
こういった「護符」への信仰の中にはエスカレートしたものもあり……
もし勇敢にも飲み込むことが出来れば、溺れることから救う護符は、息苦しさをきっと治してくれるに違いないと信じられています。
いやはや、ここまでくると流石にちょっと……。
鬼門
また、イザベラは「鬼門」についても記していました。
家の建て方を掌 る迷信もあります。それによると、北東の方角[丑寅=鬼門]に位置する蔵 、南東[裏鬼門]の玄関、南西の茶箪笥は幸運をもたらすということです。
陰陽道においては北東が「鬼門」とされますが、これを「
イザベラは「鬼門」のほかにも「北枕」の例を挙げていて、更に次のような例も紹介していました。
冷たい水にお湯を注いではいけません、なぜならそれは、死後の湯灌のときのやり方なのです。
恥ずかしながらこれは知りませんでした。
1 本が竹でもう 1 本が木の箸を使うことは、縁起が悪い火葬場で遺骨を拾い集めるために使われる箸がそうやって作られる、という理由で。
これについても、こういったシチュエーションが無いので気にしたことがなかったのですが、器に盛られたご飯に箸を立てるのはいけない!と親に窘められたことを思い出しました。これも似たようなものですよね。
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