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レンタカーで父島一周 (44) 「会いに行けるトーチカ」

巨大なプレステ2「小笠原開拓碑かいたくのひ」の横には、今度は随分と小さな石碑らしきものが……。

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にほへ碑

小さな石碑には「にほへ」との文字が彫られています。にほへ……「いろはにほへと」でしょうか?

この石碑はそのまま「にほへのひ」と呼ぶとのこと。かつて 1862(文久 2)年に八丈島から小笠原(既に欧米系島民が先住していた)に農民を移住させたものの、「生麦事件」が発生し対英関係が険悪になったことなどもあり、翌年に小笠原から撤退したことがありました。

ビジターセンターの説明には「移住者 38 名」とありましたが、この説明では「農民 30 名」とありますね。

この「にほへ碑」は「使い終えた筆を供養するための筆塚」だったとのことで、1862 年から 9 ヶ月の間、小笠原でも「寺小屋教育」が行われたことを今に伝えるものだそうです。

小笠原新治碑

「にほへ碑」の隣にも、別の石碑がありました。

なんかモノリスのような、板状の石碑ですが……

この石碑は「小笠原新治碑にいはりのひ」とのこと。小笠原諸島が日本の領土であることを示すために建てられた石碑で、1861(文久元)年に「咸臨丸」で運ばれたのだそうです。

「新治碑」の説明をよく見ると「小笠原開拓碑かいたくのひ」とコンセプトが被っているのですが、「新治碑」が幕末の建立で、「開拓碑」は明治時代に開拓を「再開」したときのもの……ということみたいです。

なおプレステ2「開拓碑」の高さは 229 cm で、「新治碑」の高さは 236 cm とのこと。「開拓碑」のほうが大きく見えるのですが、これは台座を加えると高さが 365.5 cm になるからのようです。

突然の銃眼

「小笠原開拓碑」「にほへ碑」「小笠原新治碑」を見終えたので、参道に戻って「小笠原神社」に向かいます。

参道は平坦な区間が多く、高低差がある場所には階段が整備されています。

ところで、よく見ると右側に何やら妙なものが……

あっ、これは……。トーチカの銃眼のようですね。

中に入れるトーチカ

神社を見に来た筈なのに、境内にしれっとトーチカがあるあたり、油断なりませんね……。今回はありがたいことに、ちゃんと案内板も立っていました。

「中へ入れますが足元が暗いので充分気をつけてください」とありますが……

この銃眼から中に入るのは、さすがにちょっと無理があるような……

……と思っていたら、「納涼山」に向かうトレッキングルートの横にも何やら穴が見えます。

穴の横には「トーチカ出入口」と書かれた板が置かれていました。

良く考えると当たり前の話ですが、トーチカの出入りは銃眼から行うのでは無く、裏側に出入口が存在しています。とは言え、小柄な日本人向けのサイズで、かなり窮屈そうですね……。

カッティング文字?

「納涼山」へのルートを示す案内板ですが、木製の板に「納涼山 90 m」の文字が彫られていました。鳥居の手前で見かけたものと同じですが、木の板に彫った文字は意外と長持ちするものなんですね。

書体もどことなくプロッターの文字を思わせるもので、この文字は機械的にカッティングされたものなんでしょうか……?

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