やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
日高目名川(ひだかめな──)
流れが屈曲した川
静内川の北西、新冠町との境界となっている山沿いを流れる川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には何故か「ビバウ川」と描かれているように見えます。
ただ、よく見ると現在の「田原排水川」に相当する位置に「メナ」という川が描かれていました。何故か川名が取り違えられてしまったように見えます。
戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。
メナフト
西岸相応の川也。是メナ川の川口也。扨メナとは川すじの屈曲蜿転したる処のことを云よしなるが、又その処の川と云儀也。此川水よろしきによつて鮭・鱒多く入る也。
mena は毎回解釈に苦慮するのですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されています。
mena メな ① 上流の細い枝川。② 【シズナイ】たまり水。
「日高目名川」は静内なので「たまり水」という解釈も気になるところですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。
Mena put メナ プッ 溜水ノ口 目名村
見事なまでの整合性ですね。ただ、あまりに整合性が取れているので、『小辞典』は永田地名解の解釈を追認した……というのが真相かもしれません。
一方で、松浦武四郎は「メナ」を「川すじの屈曲宛転したる処」であると明言しています。実際に陸軍図を見てもそんな感じなので、今回は mena で「流れが屈曲した川」と考えたいところです。
謎の「ビバウ川」
あと、現在の「日高目名川」が「実測切図」では「ビバウ川」になっているのですが、陸軍図では流域に「上下方」「中下方」「下下方」と言った地名が描かれていて、川名も「ケバウ川」になっているように見えます。
「上下方」「中下方」「下下方」という地名はどれも珍妙で傑作だと思うのですが、『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。
なかけぼうむら 中下方村 <静内町>
日高地方中部,太平洋沿岸の静内川河口部西岸。地名はケバウ川(古川)の下流域をケバウと称し,そのうちの中流域に位置することによる。
川名?の「ケバウ」に「下方」という字を当てて「けぼう」と読ませたとのこと。永田地名解には次のように記されていました。
Pipau ピ パウ 沼貝 下方村ト稱スルハ訛リナリ
あー、これは……。毎度おなじみ、永田方正が「『ケバウ』じゃない『ピパウ』だ!」とぶち上げたものの、例によって「そうは言っても『ケバウ』だったよね」ということでいつの間にか元通り……。
ただ今回はちょっと様相が異なるところもあって、戊午日誌「志毘茶利志」にも次のように記されていました。
また西岸に
ベバウ
本名はヒバウシのよし、左り岸也。其川岸赤楊・柳多し。其名義は蚌 多きよりして号る也。
なんと! 「また永田地名解がやりおったで」案件かと思ったのですが、今回は違ったようです。
ただ「ピパウ」あるいは「ビバウ」がしれっと「ゲバウ」に変わっていたことを考えると、やはり「そうは言っても『ゲバウ』だったよね」という意見が地元では大勢を占めていたのでは……と考えたくなります。
「ケバウ」が「ピパウ」じゃないとすると、浦河町にも複数存在する「ケバウ川」と同じだった可能性が出てきます。kep-aw で「
遠仏橋(とうふつ──)
沼・その口
新ひだか町静内田原にある町道田原桔梗線の橋で、噂の?田原排水川(かつて「メナ」と呼ばれた川)を渡っています。
『北海道実測切図』(1895 頃) には漢字で「遠佛」と描かれています。これはかつて「遠佛村」が存在していたことを示しています(1871(明治 4)年~1909(明治 42)年)。現在は消えた地名ですが、角川日本地名大辞典 (1987) によると……
〔近代〕遠仏村 明治42年~昭和9年の大字名。はじめ静内村,昭和6年からは静内町の大字。同9年字田原となる。
だそうです。
『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トウフツ」という地名が描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。
また西岸に
トウブツ
左りの方小川也。此川の上に一ツの沼有。其口なるが故に号しものとかや。
「実測切図」や『陸軍図』では沼の存在は確認できないのですが、沼沢地、あるいはそれに類した地形が存在した……ということでしょうね。to-putu で「沼・その口」と見て良さそうな感じです。
既に消え失せた地名ですが、ひっそりと橋の名前として生き残っていたというのは胸熱ですね……。
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