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北海道のアイヌ語地名 (1304) 「真訓別橋・チエツポシナイ川・オブスケ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

真訓別橋(まくんべつ──)

makun-pet?
後ろにある・川
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

新ひだか町(旧・静内町)の町道豊畑本線が「パンケペラリ川」を渡る橋の名前とのこと(全国Q地図で確認)。

北海道実測切図』(1895 頃) では少々妙なことになっていて、「ペンケペラリ」(=パンケペラリ川)から見て静内川の向こう側(対岸)に「マクンペツ」という川が描かれていました。少し北には漢字で「幕別」と描かれていて、かつてここに「幕別村」が存在したことを伺わせます。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でも不思議なことになっていて、「マクンベツ」に相当しそうな川が見当たりません。ところが戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。「バンケベラリ」(=ペラリ川)の向かいに……

此向に
     マクンベツフト
西岸相応の川也。マクンヘツとは枝川に成りし処を云。フトとは川口也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.584 より引用)

「西岸」「相応の川」とあります。「西岸」というのは『北海道実測切図』と同様なので無問題として、「相応の川」が「東西蝦夷──」に描かれていないというのは何故……?

「マクンヘツとは枝川に成りし処」とありますが、山田秀三さんによると

道内各地にマクンペッがあったが, その多くは本流から分かれた小分流で, 少し行ってまた本流と合している川筋の名である。それを「山側に入っている川」という意でマクンペッと呼んでいた。
山田秀三北海道の地名』草風館 p.162 より引用)

とのこと。改めて「東西蝦夷──」を眺めてみると、「ノヤシヤリ」(=農屋か)と書かれた「島」があるように見えます。

松浦武四郎が「相応の川」と記したのは、現在「炭山川」と呼ばれる川と「静内川の分流」である「マクンヘツ」が事前に合流していて、これを「マクンヘツ」と解釈したが故かもしれません。makun-pet は「後ろにある・川」で、含意は山田秀三さんが記した通り「山側にある分流」と見て良いかと思われます。

問題は「真訓別橋」がかつての「マクンヘツ」の対岸に存在することですが、これについては「???」としか……(汗)。

チエツポシナイ川

cheppo-us-i
小魚・多くある・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

新ひだか町静内豊畑(かつて「ペラリ」と呼ばれたところ)の北を流れる川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「チㇷ゚ウㇱュナイ」と描かれていました。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「チエツホウシ」という川が描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

凡三四丁も上りて東岸に
     チエツホウシ
崖の間小川有。其名義はチヱツホフシと云儀にて、雑喉物の涌が如く有ると云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.597 より引用)

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chep ushi   チェプ ウシ   魚多キ處

松浦武四郎が記録した「チエツホウシ」は cheppo-us-i で「小魚・多くある・もの(川)」で、永田地名解の「チェプ ウシ」は「魚・多くある・もの(川)」となりそうですね。

知里さんは、chep は本来は chi-e-p だったと見ていたようですが、『北海道実測切図』は「チプウㇱナイ」ではなく「チㇷ゚ウㇱュナイ」と描いていたようで、これは図らずも chep = chi-e-p 説を裏付けるようで面白いですね。

オブスケ川

o-puske-nay?
河口・破裂させる・川
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

新ひだか町静内農屋のやで北から静内川に注ぐ支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) では「オㇷ゚シケナイ」という川が「マクンペツ」に合流するように描かれています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には何故かそれらしい川が見当たりません。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。ちょっと掲載順がおかしいような気もするのですが……

O push nai   オ プシュ ナイ   破裂川

あっ。戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていたのですが……

 又、四人にて、是より掻きたり突ぱり等して上ること三四丁にして
      ヲフシケナイ
 左りの方小川。此川いとう多く入るよし也。其名義は昔し此処に土人居て、鹿を取て隠し置し処、其老爺の留主の時に熊が入りて、此肉を取て喰仕舞といへることのよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.600 より引用)

「鹿肉を隠しておいたらクマに食べられた」というストーリーの是非はさておき、一文字下げて記されていることに注意が必要です。これは(静内川支流の)「シユンヘツ」(=シュンベツ川)の支流であることを示しています。永田地名解の掲載順がおかしいのも、そもそもの位置が(現在のオブスケ川と)異なっていたからだったのですね。

永田地名解は「オ プシュ ナイ」の次に「タㇷ゚コㇷ゚」を記していますが、これはシュンベツ川河口に存在する(標高 75 m ほどの)山のことだと思われます。「オ プシュ ナイ」あるいは「ヲフシケナイ」が静内川ではなくシュンベツ川の支流だったとすると、全ての疑問点が氷解しますね(「東西蝦夷──」にも「タツコフ」の先に「ヲフシケナイ」が描かれているので)。

「ヲフシケナイ」は o-puske-nay で「河口・破裂させる・川」だと考えられます。永田方正は o-pus-nay で「河口・破裂する・川」と記録した……ということになりそうですね。

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