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北海道のアイヌ語地名 (1327) 「菜実・ヌモトル山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

菜実(なのみ)

nanu-ni??
顔・木
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

里平川(厚別川東支流)の「里平橋りびらはし」の北に「菜実」三等三角点が存在します(標高 213.9 m)。「菜実」で「なのみ」と読ませるとのこと。

北海道実測切図』(1895 頃) には「菜實」と描かれています。これは当時「菜實村」が存在したことを示しています(1868 年~1909 年)。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「ナヌニ」と描かれています。ただこのあたりは描写がかなりデフォルメ?されていて、里平川流域が不当に小さくなってしまっています。「東西蝦夷──」の描写を信じる限り、「ナヌニ」は里平川河口の北、厚別川と里平川の間のあたりを指していたようにも思えます。

戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。

其向岸
     ナヌニ
右のかた也。川東岸秦皮たものき赤楊はんのき・柳・樺等有る処の中に谷地川一すじ有。其名義往昔海嘯つなみの時此処え大船の*首板一枚流れ行しと云よりして号し也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.118 より引用)

鷁首板」には * 印がつけられていて、頭註には「みよし板」「おもて板」「ナヌニ ナヌミ」とあります。「ミヨシ」は板船の船首部分の柱を意味するとのこと(参考)。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Nanu ni   ナヌ ニ   艗板オモテノイタ
洪波ノ時舟ノ艗板アリシニヨリ名クト云フ○菜實村

津波の際に舟が打ち上げられたから」という定番の地名解ですが、この手の地名解は何故か山中に多く見られます。

「話を盛った」ものである可能性も高いと思うのですが、この手の地名解は何故か釧路から室蘭にかけての太平洋側に広がっているようで、実際に地震の多いエリアであるというところが少々気になるところです。地震津波が押し寄せたことがあるからこそ、「いや実はな……」という感じで話を盛りやすくなる……ということでしょうか。

「顔の木」? それとも「クルミの木」?

nanu-ni という語は手元の辞書類では確認できていないのですが、nanu で「顔」を意味するとのこと。ni は「木」なので nanu-ni で「顔・木」ということになりますね。なるほど、板舟の正面にある柱の名称としてはありそうな感じがします。

松浦武四郎と永田方正の解釈が完全に一致しているので、これ以上の深追いは不可能のようにも思えますが、敢えて掘り下げてみるならば、ninum で「クルミの実」を意味する語があります。ni が「木」で num は「粒」や「球」あるいは「果実」や「木の実」を意味するのですが、num 単体で「クルミの実」を意味することもあるみたいです。

そして『植物編』(1976) によると、ninum-ni で「クルミの木」を意味するという用例が十勝で採取されているとのこと。となると理屈の上では num-ni で「クルミの・木」を意味したとしても不思議ではありません。ninum-ninum-ni が渾然一体となって nanu-ni に化けたとしても不思議なことでは無い……ような気もします。

まぁ、何もないところから「津波で舟が」というストーリーが湧いてきたとするよりは、何らかのヒントがあり、そこから「実はな……」という感じで話が盛られたとするほうが、ありそうな感じがしますよね。

ただ、実は全く違うストーリーである可能性もありまして……(つづく)

ヌモトル山

nima-utur-oma-nay?
皿・間・そこにある・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

「菜実」三角点から 7 km ほど北東に「ヌモトル山」があり、頂上付近に「奴牟取山ぬもとるやま」という名前の二等三角点があります(標高 612.5 m)。「ヌモトル山」の麓からは「ヌモトル左 1 号川」や「ヌモトル左 2 号川」などが流れているのですが、「菜実」三角点の 2 km ほど西にも「ヌモトル右 1 号川」が流れていて、また道道 71 号「平取静内線」は「ヌモトル橋」で厚別川を渡っています。

北海道実測切図』(1895 頃) では、菜實(村)の西、現在の「厚別川」の位置に「ヌモト゚ル」と描かれています。長い前フリで恐縮ですが、要は「ヌモトル」は「厚別川上流部」の旧称だった……ということですね。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には、何故か厚別川支流と思しき位置に「メナヌトロ」と描かれています。このあたりではもっとも「ヌモトル」に近い記録だと思われますが、同一のものであるかどうかは不明です。

「間にある川」

戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。

則右の方をば
     ヌモトロ
本川なり。山の間に入るよりして此名有る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.117 より引用)

この少し先に「ナヌニ」(=菜実)が「右のかた」の地名(あるいは川名)として記録されているので、「実測切図」の「ヌモト゚ル」はこの「ヌモトロ」を指していると考えられます。

「木の実の間」?

「実測切図」では何故か現在の「里平川」が本流扱いになっていて、そこにも「ヌモトルオマナイ」という支流が描かれているのですが、この川については次のように記されていました。

しばしにて
      ヌモトロヲマナイ
 右の方小川。是本川とリイヒラの間に有るよりして、ウトロマナイと云しを転じたるものなりとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.112 より引用)

分かりづらいですが、厚別川支流(リイヒラ)の支流という扱いなので一字下げになっています。utur-oma-nay で「間・そこにある・川」だとしていますが、「モトロヲマナイ」なので num あたりが冠されていた可能性が考えられます。

num は「菜実」の項でも記した通り「粒」や「球」を意味する語で、転じて「果実」や「木の実」を意味します。となると num-utur-oma-nay は「木の実の間にある川」ということになり、何のことやら……となりますね。つまり、num(木の実)を持ち出したのは見当違いである可能性が高くなります。

「舟」、それとも「皿」?

ここで思い出されるのが浦河町の「爾萬にまん」三等三角点です。この三角点名は松浦武四郎が記録した「ニマム」に由来すると思われるのですが、実は「」を意味する nimam という古語があるのですね(!)。また「皿」を意味する nima という語もあります。

里平川と厚別川の合流点、道道 71 号「平取静内線」の「里平橋」のあたり(特に橋の南東側)は緩やかな丘陵地帯で「盆地」のような地形とも言えそうです。浦河の「爾萬」三角点のあたりも似たような感じなので、故にこの地形を「皿」に見立てて nima-utur-oma-nay で「皿・間・そこにある・川」と呼んだ……のではないかな、と。

そして nima(皿)と nimam(舟)の類似性から「皿」(=盆地)は「舟」である……となってしまい、「舟」であるからには「みよし板」があるだろう……となった可能性も考えたくなります。故に「菜実」が「みよし板」になった……?

「菜実」と「ヌモトル」、どちらも単独では意味不明な感じが凄いですが、合わせて考えてみると意外な方向性?が見えるものですね。

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