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北海道のアイヌ語地名 (901) 「コルコニウシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

コルコニウシベツ川

korkoni-us-pet
ふき・ある・川
(典拠あり、類型あり)

富良野川の東支流で、上富良野駅の北を流れる川の名前です。上流には「日の出ダム」があります。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「コロクニウシコツ」という名前の山(丘?)が描かれていました。「コツ」が kot だとしたら「窪み」なので、山の名前としては適切ではないようにも感じられますが……。

「イワヲヘツ」とその支流

「東西蝦夷山川地理取調図」を見ると、現在の「富良野川」の河口に相当する位置に「イワヲヘツフト」と描かれています。この川の上流側には「イワヲヘツ」と描かれているため、当時「富良野川」は「イワヲヘツ」と認識されていたように見えます。

「イワヲヘツ」(=富良野川)にはいくつかの支流が描かれていて、中流部では北西から「フウラヌイ」「レリケウシナイ」「フシコヘツ」「イワヲヘツ」「レホシナイ」などの川が描かれています。「コロコニウシコツ」は「レホシナイ」の南東、「レホシナイ」と「ヘヽルイ」(現在の「ベベルイ川」)の「山」として描かれています。

戊午日誌「東部登加智留宇知之誌」には次のように記されていました。

其中五六丁を過て
     フウラヌイ
川巾弐間計、相応の川にしてふかし。シヤリキウシナイ、ホンカンベツ、ホロカンベツ等何れも此河に合してソラチえ落るよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.157 より引用)

先日の記事でも言及した通り、松浦武四郎の「十勝越え」は案内役のアイヌによって意図的に誤ったルート選定がなされた疑いが濃厚とされていますが、とりあえず美瑛から上富良野に抜けたという点は間違いないと思われます。

川の名前と特徴

このあたりの「東部登加智留宇知之誌」の記録は読めば読むほど謎が深まる感があり、実際にどのルートを歩いたのか推測することが非常に難しいのですが……順番に川の名前と特徴を表にしてみました。

川名 特徴 現在の川名(推定)
ビエナエイ 小川
ホンビバウシ 小川
ホロビハウシ 川巾三間計(約 5.5 m) 美瑛美馬牛川?
ホンカンベツ 巾五六尺(約 1.5~1.8 m)
ホロカンベツ ホンカンベツから約 300 m。川沿いを下ると崖になる
シヤリキウシナイ 形ばかりの小川
フウラヌイ 川巾弐間計(約 3.6 m)
  十七八丁(約 1.9 km)を過ぎて
クヲナイ 小川・水源ビエノボリ
  廿余丁(約 2.2 km)を過ぎて
レリケウシナイ 川巾六尺計(約 1.8 m)款冬花ふきのとうあり
フシコベツ 川巾七八間?(約 13 m) ホロベツナイ川?
イワヲベツ 川巾五六間?(約 10 m) ヌッカクシ富良野川?
  十七八丁(約 1.9 km)を過ぎて
レボシナイ 小川 デボツナイ川?
  三四丁(約 380 m)を過ぎて
コロクニウシコツ 小川
  拾三四丁(約 1.5 km)を過ぎて山にかかり


この手の作業を始めると、だいたい途中で頭を抱えることになるのですが、今回もまさにそんな感じです。一部、推定される川名を記してみましたが、実は矛盾した内容が含まれています。具体的には「ホロベツナイ川」と「ヌッカクシ富良野川」の順番をしれっと入れ替えています。

「イワヲベツ」は「硫黄の焼ける処より来る」という明確な特徴があり、この特徴に合致するのは「ヌッカクシ富良野川」を措いて他にありません。しかし「イワヲベツ」と「フウラヌイ」の間に「フシコベツ」に該当する規模の川が見当たらないという大きな問題があります。

コルコニウシベツ川を「フシコベツ」と推定することも可能ですが、そうなると「クヲナイ」と「レリケウシナイ」に相当する川が見当たらないことになります。これらの矛盾は「東部登加智留宇知之誌」の「イワヲベツ」と「フシコベツ」の順序を入れ替えることで解消が可能になる……との認識です。

「フウラヌイ」と「クヲナイ」の順序も逆転させたほうが適切かもしれません。

「コルコニウシベツ川」とは

また、今回の本題である「コルコニウシベツ川」と「コロクニウシコツ」の位置は全く異なるということになります。「コロクニウシコツ」は Google マップに「東中金刀比羅神社 跡」とあるあたりの北側に相当するのでは、と考えられます。

要は「コロクニウシコツ」と「コルコニウシベツ川」は異なる場所ですよ……ということを証明したかったのですが、随分と長くなってしまいました(汗)。ではそろそろ本題に……(ぉぃ)。

「コルコニウシベツ川」は、松浦武四郎が「レリケウシナイ」(rerke-us-nay で「山向こう・にある・川」か?)と記録した川と思われ、korkoni-us-pet で「ふき・ある・川」という意味だと考えられます。

同じ茅原をまた廿余丁過て
     レリケウシナイ
川巾六尺計。両岸柏槲・樺・赤楊・柳多し。川中焼石のみ。水源ビエより来りソラチに落るよし。其辺り早藕・献春菜多し 。また款冬花ふきのとう有るによつて、是を摘み喰す。然るに土人は余り是を喰することを不好由なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.158-159 より引用)※ 原文ママ

「ふきのとう」があるということから「コルコニウシベツ」と呼ばれるようになった、と言ったところなのでしょうね。

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北海道のアイヌ語地名 (900) 「勇振川・瓊発辺・経歳鶴」

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勇振川(ゆうふれ──)

yu-hure-nay?
湯・赤い・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

空知川の西支流で、JR 根室本線・山部駅の北を流れる川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」や永田地名解にはそれらしき川が見当たらず、明治時代の地形図には川は描かれていたものの川名の記載がありませんでした(残念)。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 ユウフレ沢 芦別岳から流れ出し空知川に注ぐ小川。アイヌ語で湯が赤いという意味になるが,温泉がないので意味不明。
NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.307 より引用)

一方で、山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

富良野市役所の調べによれば「赤い温泉の意で上流に地獄谷があり,上流にリイフレナイがある」とのことであった。yu-hure(温泉・赤い)と解したものであるが, この文を総合して見ると,フレ・ナイ(赤い川)という川があって,その一脈がユー・フレ・ナイ(温泉のある・赤川)だったのかもしれない。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.71 より引用)

yu-hure-nay で「湯・赤い・川」と考えたようですが、どうも温泉の有無について真っ向から見解が分かれているようです。

十勝岳の周辺には温泉が多いのですが、芦別市との境界に聳える「芦別岳」のまわりには名のある温泉は見当たらないように見えるので、果たして「赤い温泉」説が妥当なのかどうか、ちょっと疑問に思えてきます。「富良野市役所の調べによれば」というイントロはとても説得力があるのですが……。

ユーフレナイに湯は出たか

山田さんの「フレ・ナイ(赤い川)という川があって,その一脈がユー・フレ・ナイ(温泉のある・赤川)だったのかもしれない」という推測は、確かに「ありそうな説」に思えます。松浦武四郎の紀行文でも「赤土」や「赤い水」に関する記述が散見されるほか、現在の「布礼別川」のことと考えられる「フウレヘツ」という川名も記録されています(但し何故か「東西蝦夷山川地理取調図」には描かれていません)。

とりあえずこのあたりには「フレナイ」や「フレベツ」がわんさかあるので、それぞれを識別するために独自のキーワードを頭に追加していた……と考えて良いのかな、と思えます。芦別岳のあたりには温泉が無さそうに見えますが、だからこそ鉱泉レベルでも「湯の出るフレナイ」と呼ばれた可能性も出てきますし、あるいは i-o-hure-nay で「アレ・多くいる・赤い・川」だった可能性もあるかもしれません。「アレ」は「ヒグマ」かもしれませんし、あるいは「マムシ」あたりかもしれません。

今の段階では山田さんの記した yu-hure-nay で「湯・赤い・川」説を否定するだけの根拠を持ち合わせていないのですが、「いやいや上流にも湯なんて出ないよ」という話になったならば……ということで。

瓊発辺(ぬぽっぺ)

num-ot-pe??
胡桃・多い・もの(川)
(?? = 典拠未確認、類型あり)

JR 根室本線の布部駅の北側を「布部川」という川が流れています(空知川の東支流です)。布部川を遡って東に向かうと麓郷の市街地がありますが、麓郷の市街地から見て北東、トウヤウスベ山の西南西に「瓊発辺」という名前の二等三角点があります。

」という字がおそろしく難読ですが、戦国時代に「安国寺恵瓊」という僧籍の武将?がいたのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。「瓊」を「ケイ」と読むのは漢音のようで、訓読みでは「たま」または「に」や「ぬ」と読むとのこと。

この三角点は「布部川」の流域(山の上ですが)にあるので、「瓊発辺」と「布部」は由来を同じくすると考えるのが自然でしょうか。「布部」は num-ot-pe で「胡桃・多い・もの(川)」だと言われていて、「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ヌモツベフト」「ヌモツヘイトコ」などの川名や地名が描かれています。

明治時代の地形図にも「ヌモッペ」「サルンヌモッペ」「ポンヌモッペ」などと描かれていて、いずれも「ヌモッペ」で統一されています。その中で、上流部に存在するこの三角点だけが「ぬぽっぺ」なのが気になるところです。

「布部」の num-ot-pe も他所で見かけない解だけに、実は「ヌポッペ」が本来の形に近いんじゃないか……と考えたくなります。nup-o-pet で「野原・にある・川」と読むことも可能ですが、山田秀三さんによると……

 アイヌ語の語尾の子音ムもプ(m, p)も不破裂音で,唇を閉じたままであるためか,よくムがプに訛って残った。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.242 より引用)

「ム」が「プ」に訛るケースが多かったとのこと。この「ヌポッペ」もその一例だったのかもしれません。

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宗谷本線特急列車 (45) 「スーパー宗谷 3 号」

5 番線に入線していた特急「オホーツク 7 号」が定刻通りに出発しました。あっ、最後尾の車輌はスラントノーズだったんですね。

快速「なよろ 7 号」

そして 3 番線には石北本線の伊香牛からやってきた 4546D が入線してきました。この車輌はこの先、快速「なよろ 7 号」として名寄に向かうことになります。

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宗谷本線特急列車 (44) 「旭川・その3」

旭川駅で特急「スーパー宗谷 3 号」の到着を待っているところです。この先は各駅停車ではないので、題名をちょこっとだけ変更しています。

L 特急「スーパーカムイ 42 号」

特急「スーパー宗谷 3 号」は 4 番線に入線予定ですが、18:58 時点では札幌行きの L 特急「スーパーカムイ 42 号」が発車を待っていました。

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宗谷本線各駅停車 (43) 「旭川・その2」

旭川駅に到着しました。ついさっきまで乗車していた 328D は、一瞬のうちに深川行き 928D に変身してしまいました。

階段を降りて改札に向かいます。線路の下ですから「跨線橋」ではありませんし、でも地下でも無いので「地下道」でもありません。改札の中なので「自由通路」でも無いですし……どう表現すれば良いものでしょう。

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宗谷本線各駅停車 (42) 「旭川四条・旭川」

旭川行き 328D は新旭川駅を出発しました。新旭川から先は複線電化区間です。

牛朱別川を渡ります。「永山新川」ができて水量は少なくなっている筈ですが、それでもそこそこ流れていますね。

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「日本奥地紀行」を読む (127) 神宮寺(大仙市) (1878/7/21)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていきます。

 

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

慰めのない日曜日

「日本奥地紀行」は、章の副題として「神宮寺にて 七月二十一日」と言った風に所在地と日付が記されています。一章につき数日分の出来事が記されているのが常なので、出来事のあった日付は副題から逆算することで求めることができます。

1878/7/21 は日曜日で、続く「第二十一信」は「月曜日の朝に──」で始まっているため、イザベラは神宮寺で一泊したと想定されます。ところが……

午後には小さな行列が家の前を通った。一台の飾られた駕籠を僧侶が担いで、ぞろぞろ歩いていた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.248-249 より引用)

これまでの内容から、イザベラは 7/21(日) の朝に横手で神社を散策して、午後には六郷で「社会見学」した後で神宮寺に到着したと推定していました。イザベラが翌朝に神宮寺を発ったのだとすれば、「午後には──」で始まる経験ができる筈が無いので、どこかに間違いが潜んでいることになりますね。

ここ数日分の旅程が一日前倒しで進んでいた可能性について確認してみたのですが、どうやらイザベラが金山に逗留したのが三泊ではなく二泊だった……と思えてきました。つまり、イザベラが横手で神社を散策したのは 7/20(土) の朝だったことになります。7/20(土) が「友引」なのが気になりますが、明治新政府六曜の暦注を禁止したという話もあるため、気にするべきでは無いのかもしれません。

そしてイザベラは神宮寺で二泊したことになるので、日曜日の午後に次のようなイベントを目にした、ということになりそうです。

僧侶たちは真っ赤な式服や白い法衣の上に肩マントやストラ(祭服)をかけていた。この箱には紙片が入っていて、人々の恐れる災害や人間の名前が書きこんであるという。僧侶たちはこの紙片を川に持っていって捨てるのである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)

それにしても……これは何なんでしょう。僧侶が神輿を担いでいるかのように見えてしまうのですが。

無法な侵入

イザベラは「慰めのない日曜日」をまるまる休息に費やし、翌朝の出発に備えて早く寝ることにしたようですが……

眼を閉じると、九時ごろ足をひきずって歩く音やささやき声でざわざわし、しばらく続くので、眼を上げたところ、向かい側に約四十人の男女と子どもたち《伊藤は百人だという》が、顔を灯火に照らされながら、みな私の姿をじっと見ていた。彼らは、廊下の隣の障子を三枚、音もなく取り去っていたのである!
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)

うわー……。イザベラはさらっと「事実」を記していますが、これ、読めば読むほど恐怖……ですよね。部屋で寝入ったところ、いつの間にか壁が取っ払われて数十人以上に寝姿を監視されていた、ということですからね。

さすがのイザベラも恐怖に慄いたのか、大声で伊藤を呼び出します。イザベラが騒いだだけではその場を立ち去ろうとしなかった群衆も、伊藤がやってきたことでようやく逃げ去ります。見世物扱いされることには慣れていたイザベラも、さすがに今回の仕打ちは堪えたようで……

私は、戸外で群集が集まってきてじろじろ見られることには、辛抱強く、ときには微笑してがまんしてきた。しかし、この種の侵入には耐えられない。伊藤は反対したけれども、彼を警察にやって、家から人々を追い出してもらおうとした。宿の亭主にはそれができないからである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)※ 原文ママ

警察に事態の収拾を依頼するしか無い、との結論に至ったのでした。

じっと見る特権

興味深いことに、伊藤は警察の介入に反対していました。それが「事なかれ主義」によるものなのか、それとも他に理由があったのかは明らかではありませんが、もしかしたら「警察を呼んだところで碌なことにならない」という確信があったのかもしれません。

今朝私が着換えを終わると、一人の警官が私の部屋にやってきた。表面上は人々の不作法を詫びるためであったが、実際には警察の特権で私をじろじろ見ていた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)

伊藤にしてみれば「ほら、やめたほうが良いと言ったでしょ」となるのでしょうか。失望を隠せずにいたイザベラに対して、伊藤は渾身のジョークで追い打ちをかけます。

特に彼は、私の担架式寝台と蚊帳からほとんど眼を離さなかった。それらを見世物にすれば一日一円儲けることができる、と伊藤は言っている!
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)

イザベラが担架式寝台と蚊帳によるビッグビジネスの可能性に思いを馳せる中、件の警官氏が事の真相を激白します。

人々は今まで外国人を見たことがないものだから、と警官は言った。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.250 より引用)

うん、知ってた。

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