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旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (181) 「夢海道オホーツク」

国道 238 号を北西に向かい、枝幸町に入りました。

枝幸町から先は「宗谷総合振興局」のエリアです。町境に看板などの情報が多めなのは、ここが「オホーツク総合振興局」との境界であることも関係ありそうでしょうか。

交通遮断機も見えます。この遮断機は枝幸に向かう車輌に対しても、雄武に向かう車輌に対しても使用できるみたいですね。雄武町枝幸町を直接つなぐ道路はここしか無いようで、このゲートを閉じてしまえば往来をストップできてしまうようです。

この「夢海道オホーツク」の看板はちょくちょく見かけるのですが、そういえば正確な分布を把握していなかったですね。今後気をつけて見るようにします……。

まずは漁港と小学校

基本的にオホーツク海沿いを通っている筈の国道 238 号ですが、昨日の記事でもちらっと言及した通り、海が見えない区間も意外と多かったりします。

枝幸町音標にやってきました。枝幸町は、北から「目梨泊」「問牧」「枝幸」「岡島」「徳志別」「山臼」「乙忠部」「音標」と漁港が並んでいて、漁港の近くに集落がある……というパターンが続きます(音標と乙忠部の間の「風烈布」には漁港は無さそう)。

国道沿いには郵便局とガソリンスタンドが目立っているくらいで、それほど建物は多くないですが、民家は漁港の近くに集まっているようで、実はそこそこ大きな集落みたいです。

枝幸町で「すごいなー」と思うのが、現在も小学校が「目梨泊」「問牧」「枝幸」「岡島」「山臼」「乙忠部」「風烈布」「音標」にあるんですよね(「徳志別」は閉校済み。北隣の「岡島」と南隣の「山臼」への距離はどちらもそれほど遠くないのですが、どちらが受け皿になったのでしょう?)。

消された 2 文字

小学校は国道沿いの、びみょうに高台になっている場所にありました。小学校の北を「音標川」が流れていますが、川に向かって下り坂になっていることがわかります。

漁港への入口は坂を下った先にありました。漁港は音標岬の西側にありますが、港なので当然のことながら標高は数 m しかありません。国道は標高 15 m の台地の上を通っていたので、坂を登る必要の生じる国道側に家が少ないわけですね。

「音標川」の北側には交叉点があり、道道 880 号「上音標音標線」が分岐していました。青看板の「上音標」の右側には 2 文字ほど消された形跡があるのですが、もしかして「市街」とかですかね……?

「枝幸 30 km」

音標と乙忠部の間のエリアが「風烈布ふうれっぷ」です。「烈風」を想起させる印象的な地名ですね。

風烈布のあたりでも、ところどころでオホーツク海を見ることができます。

稚内 151 km」は良いとして、同じ町内でありながら「枝幸 30 km」と出ています。最近ではより正確を期すためか「○○市街」と言った表現が使われることが多いですが、ここは昔ながらの「枝幸 30 km」です。

漁港がなくても小学校!

風烈布の中心部にやってきました。前述の通り、このあたりの集落の中では珍しく、漁港の無い集落です。

航空写真をちらっと見た感じでは、集落はとても小さいですが、集落の外に、農場と一体化した住居が点在しているようにも見えます。集落の真ん中には小学校があり……

小学校の前には信号機も設置されていました。押ボタン信号で、これは教育目的も兼ねているのでしょうね。

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (180) 「幌内ダム」

引き続き、道道 60 号「下川雄武線」で雄武町幌内に向かいます。中幌内のあたりは広くは無いものの平地が続いていて、走りやすい直線が多い印象です。

「中幌内」と「北幌内」の間は、川と道路を通すだけで精一杯なくらいの狭い谷となりますが……

北幌内に抜けるとご覧の通り。左右に迫っていた山は見えなくなりました。

幌内ダム

ようやく平野部に抜けた……と思いたくなりますが、実はここのすぐ右側にはダム湖があるのです。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

ダムと言えば、たとえば「岩尾内ダム」や「サンルダム」のように、山の中に建設されるイメージがあります。もちろん「二風谷ダム」のように中流域にダムを築く場合もありますが、幌内ダムのように、海から僅か 4 km ほどの場所に(頭首工レベルのものではなく)本格的なダムが存在するというのは、かなり珍しいような気がするのですが……。

この「幌内ダム」は戦前に建設され、戦中に決壊した……という話を聞いた記憶があるのですが、Wikipedia にも「1941 年(昭和 16 年)にダムが決壊しその後放棄」とあるので間違い無さそうですね。

どうやら元々は「発電用ダム」として建設されたものだったらしく、1953 年(昭和 28 年)に再建されたダムも発電用のものだったみたいです。ただ、発電所は 1978 年(昭和 48 年)に廃止され、今は「砂防ダム」という扱いになっているとのこと。

「幌内ダム」の南北には台地が広がっていて、川だけが 7~80 m 下を流れるという、これ以上無い立地と言える場所に堰堤があるのですが、実は堤高は 21 m しか無いとのこと。地形を考えると倍の高さにもできた筈ですが、これでも崩壊した旧ダムよりも 8 m 高かったとのこと。

貯水量が増加したことで、発電能力も大幅に増加したようですが、より巨大な発電能力を持つ発電所が次々と建設されたこともあり、幌内ダムでの発電は割高なものになってしまいます。その結果、1978 年に発電所が廃止されてしまった、ということのようです。

実は台地の上だったり

道道 60 号は幌内ダムのすぐ北側を通っている筈なのですが、ダム湖はまったく見えなかったような気がします。このあたりも平野の中を走っている……ように見えるかもしれませんが、ここは標高 50 m ほどの台地の上です。

下り坂の先に、ようやくオホーツク海が見えてきました。

坂を下ると、いきなり「津波浸水予想地域」です。海も近いですし、標高も 7 m 程度なので、これは仕方がないですね。

道道 60 号・終点

国道 238 号の「幌内橋」が見えてきました。

そして道道 60 号「下川雄武線」の終点となる T 字路が近づいてきました。

左折して、国道 238 号で枝幸に向かいます。

稚内まで 162 km

国道 238 号に入りました。左手に土手が見えますが、あれは建設途中で放棄された「興浜線」の路盤かもしれません。

「枝幸」は隣町なので、青看板の序列は一番下になりました。浜頓別まで 70 km、そして稚内までは 162 km と出ています。あと 3 時間あれば稚内にたどり着ける計算になりますが、これを「近い」と見るか「遠い」と見るかは……?(個人的には「ちょい遠い」という印象)

国鉄興浜南線の終点だった「雄武おむ」と、国鉄興浜北線の終点だった「枝幸」の間が鉄道で結ばれることはありませんでしたが、今でも路線バスは走っているようです(随分と古い話になりますが、蛭子さんのバス旅でも乗車していた筈)。バス停の横には随分と立派な待合所が設置されていました。

枝枝幸えだえさしのあたりを過ぎると、国道はオホーツク海のすぐ傍を通るようになります。国道 238 号はずーっとオホーツク海沿いを通っている筈なのですが、海が見えない区間も意外とあるのです。

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (179) 「走行可能距離が!」

道道 49 号「美深雄武線」と道道 60 号「下川雄武線」の重複区間を走っていましたが、前方に交叉点が見えてきました。雄武の中心部に向かう道道 49 号とは、この交叉点で分離することになります。

縦長の道道標識は、重複する 2 路線の情報を明記したタイプのものでしたが……

「重複区間」の下に「ここまで」の注釈が追加されていました。

消滅集落をゆく

引き続き、道道 60 号で雄武町幌内に向かいます。道道 49 号と分離したことにより、青看板が案内するこの先の自治体レベルの目的地は「雄武」から「枝幸」に変わっています。

雄武町上幌内の集落は、パンケオロピリカイ川の「かなえ橋」と、幌内川の「奥幌内橋」の間に建物が集中していました。壊れた建物も見えますが、上幌内地区は定住人口が 0 人になってしまい、現在では「消滅集落」という扱いです。

気候が寒冷な奥地では、畑作も容易ではないため、牧畜を行うことが多いのですが、色々な理由から離農するケースも少なくないようです。

牧場を引き継いでくれる人がいれば良いのですが、後継者が見つからない場合は牧場を放棄することになります。その際にサイロなどの建物が固定資産税の対象となってしまうのを避けるために、意図的に一部を破壊して「廃墟」にすることで課税を逃れることができるのだとか。中途半端に壊れたサイロを見かけると、色々と考えさせられるものがあります。

走行可能距離が!

「奥幌内橋」で幌内川を渡ります。橋の名前は「奥幌内」ですが、「上幌内」地区の手前に位置する橋です。

ふとインパネの中央部にある「マルチインフォメーションディスプレイ」を眺めたところ……むむっ。ここまで 10 分間と同じペースでこれからも走り続けたなら、あと 1,000 km 走行できる……と出ています。燃料タンクは 70 リットル入るので、1 リットルで 14.3 km 走行できる計算ということになりますね。

これまでも無給油で 800 km 走ることは普通にできていたのですが、900 km を超えたことはあまり記憶にありません。ちなみにサンルダムの手前では「あと 850 km 走行できる」と出ていたので、幌内越峠を越えてから走行可能距離が伸びたことになりますね。

停止状態からの発進を行うと燃費が悪くなりますが、上り坂を定速走行していても走行可能距離が目に見えて短くなります。逆にエンジンブレーキだけで定速走行できるような道だと瞬間燃費表示は「∞」になりますし、走行可能距離も長くなるのですが、それにしても「1,000 km」というのはインパクトがありますね。

更にその数分後……

ついに「走行可能距離」が 1,050 km に!(200 km 以上は 50 km 刻みで表示される仕様です)。もしかして、停止する機会を極限まで減らした上で定速走行を続けたなら、無給油で 1,000 km 走るんじゃないか……と。

急にカーブが来たので

……などと思いながら車を走らせていると、前方に燃費走行の敵が見えてきました。40 km/h 制限の標識ですが、見事に赤枠が褪色しちゃってますね……。

道道 60 号はセンターラインのある走りやすい道ですが、山が川のすぐ傍まで迫っている場所がちょくちょくあるので、「急にカーブが来たので」状態になっているところもあります。40 km/h 制限も仕方がないと言ったところでしょうか。

急カーブが落ち着いたところで、50 km/h 制限に戻りました。

……と思ったら、またしても 40 km/h 制限です。集落の中に入る場合は突然 40 km/h 制限になるケースが多いですが、まわりに民家は見当たりません。

なるほど、この S 字が危険だという判断なのですね。手前の左カーブはなんてこと無いですが、その先の右カーブがちょいとキツいということでしょう。

S 字を抜けると、今度は「40 km/h 制限解除」の標識が見えてきました。この「制限解除」の標識って、海外から来た人もすぐ理解できるものなんでしょうか……?

交通遮断機の謎

雄武町中幌内にやってきました。随分と立派な交通遮断機が見えています。どうやら中幌内から上幌内に向かう道が、積雪時などは通行止めになるケースがあるようですね。

この手の遮断機ってめちゃくちゃ頑丈にできてるよなぁ……といつも思うのですが、ふと Google ストリートビューを見てみたところ……

あっ、このゲートが設定されたのは比較的最近なのかもしれません。このストリートビューは 2014 年 7 月撮影とのことで、2014 年 7 月から 2016 年 5 月の間に設置されたと考えられそうです。

「なるほど、ここの農場の人のために通行止め区間を改めたのかな」と思ったのですが……

航空写真で見てみると、ゲートらしきものが見える代わりに農場(牧場かも?)の建物が全く見当たりません。これは一体……?

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (178) 「ようこそ 北の海と道」

道道 60 号「下川雄武線」の「幌内越峠」を越えて、雄武町に入りました。うわっ

お約束のブレブレ写真で申し訳ありません……。

峠の北側は、地理院地図では「紋別郡雄武町字道有林」と表示されていますが、道路脇の路線名入りヘキサ?には「雄武町上幌内」とあります。

ちなみにこちらのポールですが、各種標識と矢羽根を一手に引き受けてくれています。マルチタスクですね(何か違う)。

日照の良くない北西向き斜面を中心に、そこそこの量の雪が残っていました。

道道 49 号と合流

幌内川を渡り、西支流である「イキタライロンニエ川」を渡った先で、道道 60 号は道道 49 号「美深雄武線」と合流します。

青看板には雄武町美深町カントリーサインが。これだけで、両町がなんとなく仲が良さそうに思えるのが不思議ですね(実際のところは不明ですが)。

左折すると美深まで 39 km、直進すると雄武まで 28 km です。途中の仁宇布で道道 120 号「美深中頓別線」と接続しているのですが、そう言えば言及されてなかったですね。

「重複区間

旭川あたりでも見かけた、びみょうにスペースに余裕が感じられる青看板がありました(フォントの都合?)。ここは道道 49 号「美深雄武線」と道道 60 号「下川雄武線」の重複区間なのですが、道道 60 号のヘキサもちゃんと描かれているところが良心的でしょうか。

道路脇の路線名入りヘキサ?にも、しっかりと両路線の番号と名称が明記されている上に「重複区間」の文字まで。割と珍しいような気もしますね。

高速 S 字カーブ

「道狭し」と「凸凹あり」の警告標識が見えてきました。右側の矢羽根を見る限りでは直線道路が続いているように思えますが、僅かに右にカーブしているようです。

実際にカーブに差し掛かってみると、そこそこ急なカーブでした。ただカーブの深さは大したこと無いので、左右をギリギリまで使えば楽に走れそうです(対向車に注意!)。

この中途半端な S 字カーブ、改良工事が中途半端に止まってしまった……ということなんでしょうかね。

ようこそ 北の海と道

前方に「上幌内ふる里パーキング」という駐車スペースが見えてきました。どうやらトイレもあるようで、いざと言うときに助かりますね。

横には「ようこそ 北の海と道」というちょっと洒落た看板が経っていました。白を基調にした看板ですが、防風林の手前に建てることでとても見やすくなっています。

パーキングの近くには民家が点在していますが、確かこの上幌内地区は既に住民がゼロになっていると聞いています。当然ながらコンビニなどがある筈もないので、トイレつきのパーキングがあるのは(公共福祉の面でも)良いことですよね。

ちょくちょく建物が見えるのに、集落が無人というのも不思議な感じがしますね……。

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北海道のアイヌ語地名 (866) 「メママカシンナイ川・パンケシュプナイ川・ケラシップナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

メママカシンナイ川

menemay-kar-us-nay?
マルバノバッコヤナギ・伐る・いつもする・川
(? = 典拠あり、類型未確認)

声問川(旧・幕別川)の東支流で、稚内市恵北と樺岡の間(マクンベツ川よりも南側)を流れています。地理院地図には河川として描かれていますが、残念ながら川名の記載はありません。

地理院地図では、「メママカシンナイ川」の源流部の鞍部に風力発電の風車があるようにも見えますね。


明治時代の地形図には「ソーポックシュナイ」と描かれていて、その支流として「ニカプカラシナイ」と「アフカル??ナイ」が描かれていました。現在の「メママカシンナイ川」に相当するのは「ソーポックシュナイ」か、あるいは「ニカプカラシナイ」だと考えられます(「アフカル子エナイ」は北に位置しているように見えます)。

この「メママカシンナイ川」をどう考えたものか……という話ですが、素直に読み解けば mem-mak-us-nay で「泉池・後ろ・そこにある・川」と言ったあたりの解が想像できそうです。このあたりは声問川(幕別川)の湿地が広がっていた筈なので mem が存在したかどうかは怪しいですが、東側(上流側)の丘陵部であれば湧き水があっても不思議ではない……かもしれません。

ただ、改めて永田地名解を眺めてみると、次のような川が記録されていることに気づきました。

Menomai kara nai  メノマイ カラ ナイ  バツコ柳ヲ伐ル澤 「シユシユ」ハ川柳ナリ

「メノマイ」という語は初耳のような気がしますが、どうやら meromay あるいは menemay で「マルバノバッコヤナギ」を意味するとのこと。https://ainugo.nam.go.jp/siror/book/detail.php?book_id=P0320 には「シウスス」とありますが、知里さんの「植物編」によると、これは十勝方面で使われる表現のようです。

また、これも「植物編」からの情報ですが、meromay は名寄で記録されたもので、menemay は眞岡と白浦で記録されたものとあります。menemay は「樺太風」の発音だったと言えそうです。

ということで、「メママカシンナイ」は menemay-kar-us-nay で、「マルバノバッコヤナギ・伐る・いつもする・川」と考えられそうな気がします。そう言えば明治時代の地形図にも「ニカプカラシナイ」と言う川が描かれていましたが、これも nikap-kar-us-nay で「(ハルニレの)樹皮・取る・いつもする・川」と読めます。

「マルバノバッコヤナギ」は舟材として用いられたようですが、内皮の繊維を紡いで糸にすることもあったとのこと。明治時代の地形図は nikap というざっくりした表現で記録していて、永田地名解では menenay という具体的な樹木名で記録した(故に違いが生じた)、というオチかもしれません。

パンケシュプナイ川

panke-supun-us-nay
川下側の・ウグイ・いる・川
(典拠あり、類型あり)

声問川(旧・幕別川)の東支流で、「メママカシンナイ川」よりも南側(樺岡寄り)を流れています。

明治時代の地形図には「パンケシュプンウㇱュナイ」と描かれていました。……あ。panke-supun-us-nay で「川下側の・ウグイ・いる・川」と見て決定的ですね。-us は省略しても意味が伝わるケースが多いため、省略されてしまうことが多いのですが、ここでも見事に略されてしまったように見えます。

永田地名解にも次のように記されていました。

Panke shupu nush nai  パンケ シュプン ウㇱュ ナイ下ノウグヒ川
Penke shupun ush nai  ペンケ シュプン ウㇱュ ナイ上ノウグヒ川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.426 より引用)

shupu nushshupun ush でびみょうに表記が揺れていますが、誤差の範囲というか、単なる誤植の可能性もありそうです。

ちなみに、現在の「大沼」もかつて「シユフントウ」と呼ばれていました。「東西蝦夷山川地理取調図」には、「シユフントウ」に流れ込む川(=声問川)の(沼から見て)最初の東支流として「シユフンウシナイ」という川が描かれていますが、現在の「パンケシュプナイ川」は「大沼」から 6~7 km ほど遡ったところを流れています。

「東西蝦夷──」の「シユフンウシナイ」と「パンケシュプナイ川」が同一の川であるか否かは慎重に検討する必要がありそうですが、上流部に「タツニヤラ」や「チフクシナイ」などが描かれていることを考えると、やはり同一の川だったのでしょうか。

明治時代の地形図には「イナウオマナイ」や「ソーポックシュナイ」「ニカプカラシナイ」「アフカル??ナイ」などの川が描かれていますが、松浦武四郎が声問川(幕別川)を遡った際にこれらの川は完全にスルーされた……と考えるしか無さそうな感じでしょうか。

ケラシップナイ川

penke-supun-us-nay?
川上側の・ウグイ・いる・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

稚内市樺岡……あ、「稚内市声問村樺岡」が正式でしょうか……を流れる声問川(旧・幕別川)の東支流です。残念ながら地理院地図には河川として描かれていません(降雨時以外はほとんど水のない川なのかもしれませんね)。

「ケラ」って何だろう……と思って辞書を見てみたところ、kéra で「味」という意味があるとのこと。kéra pirka で「たいへんおいしい」ということになるそうです。

「へぇ~。それにしても『ケラシップ』って何だろう」と思いつつ明治時代の地形図を眺めてみたところ、そこには「ペンケシュプンウシュナイ」の文字が。おいいい……!

「ペンケ」の「ペン」はどこ行ったとか、「ケラ」の「ラ」はどこから出てきたのだとか、ツッコミどころが満載なのですが、これだけ明白な記録がある以上、「ケラシップナイ川」が「ペンケシュプンウシュナイ」の成れの果てであるということを否定できない感じです。penke-supun-us-nay で「川上側の・ウグイ・いる・川」ということになりそうです。

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北海道のアイヌ語地名 (865) 「幕別(稚内市)・ウツナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幕別(まくべつ)

mak-un-pet
奥・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)

稚内空港の南に「恵北」という地名があり、かつて国鉄天北線にも同名の駅がありました。恵北には「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」が一部崩壊しながらも現存しているのですが、この送信所は太平洋戦争の開戦を意味する「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報を送出したということでも知られています。

駅名改称の経緯

駅があった場所なので、まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  恵 北(けいほく)
所在地 稚内市
開 駅 大正 11 年 11 月 1 日
起 源 もと「幕別(まくべつ)」といい、アイヌ語の「マク・ウン・ペッ」(奥に行く川)から出たものであるが、根室本線幕別町があり、駅名を「止若(やむわっか)」といってまぎらわしいことから、昭和 38 年 10 月 1 日、この地の字(あざ)名の「恵北」と改めたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.189 より引用)

幕別」と言えばシェイクスピア……じゃなくて十勝の幕別町を思い浮かべる方が多いと思いますが、ややこしいことに「幕別駅」は稚内市恵北にあり、現在の幕別駅(根室本線の駅)は「止若やむわっか駅」という名前でした。

稚内」という地名自体が「ヤムワッカナイ」に由来するということもあり、かなりややこしいことになっていたので、1963 年 10 月 1 日に「幕別」駅を「恵北」駅に改めて、翌月の 11 月 1 日に「止若」駅を「幕別」駅に改めるという、玉突き型の駅名変更が行われています。

失われた「幕別

いつ「恵北」という地名が成立したのかは、手元の資料では明らかでは無いのですが、駅名の変更が 1963 年ですから、遅くともそれ以前ということになります。大正時代に測図された「陸軍図」では、駅名を含めて「幕別」と描かれていました。

更には、恵北の西側、大沼との間を「声問川」が流れていますが、この川はもともと大沼に注いでいて、名前も「幕別川」と呼ばれていました。現在は大沼を経由しない形で新川が開削され、上流部も含めて名前を「声問川」に統一してしまったように見えます。

つまり、稚内の「幕別」は「失われた地名」であり、川名の「幕別川」も「失われた川名」のように思えるのですが、実は今も「恵北」と南の「樺岡」の間に「マクンベツ川」という川が現存しています。「幕別川」の名前が「声問川」に変えられた後に、なぜかひょっこり昔の名前で出てきた、ということでしょうか。

ということで、本項の題名は「幕別」ではなく「マクンベツ川」にすべきという説もありますが、「幕別送信所」の名前の由来が気になる方もいらっしゃるだろうということで、あえて「幕別」とさせてもらいました。どうかご了承のほどを。

「奥にある川」の意味

永田地名解には次のように記されていました。

Makun pet  マクン ペッ  後背ノ川 沼ノ後背ニアル川ニシテ此邊ノ大川ナリ

やはり「幕別」は mak-un-pet で「奥・そこにある・川」と考えて良さそうですね。「この辺の大川」とありますが、これは(既述のとおり)現在の「声問川」のことと考えられます。

個人的にはここまでの内容でほぼ納得していたのですが、山田秀三さんは「北海道の地名」にて次のように疑問を呈していました。

幕別 まくんべつ
 大沼(シュプントウ沼)の上(南東)の川名,地名。名のもとになったマクン・ペッ「後(奥の方,山の方)にある・川」の位置がはっきりしない。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.162 より引用)

こう前置きした上で、具体的には次のように不明点が記されていました。

明治31年5万分図や,今使っている5万分図では,声問川の,大沼から上の部分を幕別川(マクンペッ)としているが,道庁河川課編河川図(5万分図)では,その部分(本流)も声問川とし,その本流に,沼から2キロ半ぐらいの処で注いでいる東小支流の名をマクンペツ川としている。何か理由があるらしい。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.162 より引用)

かつての「幕別川」は現在「声問川」となっていますが、1980 年代の土地利用図でも既に「声問川」と表記されています。「道庁河川図」の内容が正解で、山田さんの手元にあった地形図の更新が遅れていた、と考えられそうです。

「枝川」なのか「大川」なのか

幕別」は mak-un-pet であるという点では一致しているものの、「竹四郎廻浦日記」の記録と「北海道蝦夷語地名解」(永田地名解)の記録には、実は大きな乖離がありました。

 松浦氏廻浦日記に「シフントウホ(注:大沼らしい)と云沼あり。また左り(東側)の方本川(声問川の)。ハンケホシユシナイ,ヘンケホシユシナイ,マクンヘツ,此処枝川なるが,直に又本川と逢也」と書かれていることに注意したい。
山田秀三「北海道の地名」草風館 p.162 より引用)

確かに「竹四郎廻浦日記」には該当の内容が記されていました。また戊午日誌「西部古以登以誌」にも「其名義枝川と云儀也」との注釈がありました。永田地名解は「この辺の大川なり」としていたので、整合性が取れないですね。

道内各地にマクンペッがあったが,その多くは本流から分かれた小分流で,少し行ってまた本流と合している川筋の名である。それを「山側に入っている川」という意でマクンペッと呼んでいた。廻浦日記の書いたマクンヘツも正にその形である。
山田秀三「北海道の地名」草風館 p.162 より引用)

川と川は合流するものと考えがちですが、それなりの規模の川であれば、平野部で二手に分かれるということも十分にあり得る話です。十勝の幕別のあたりも、十勝川だけでもいくつもの流れに別れてはすぐに合流していて、多くの「中の島」が形成されていました。

また古くは十勝川の分流のひとつが幕別川、あるいはその支流である途別川に注いでいたという話もあったようで、山田さんは mak-un-pet を「山側を流れる分流」と考えていたようです。

個人的には、全ての mak-un-pet が「分流」であるとは限らないと思っているのですが、十勝でも稚内でも「分流」であることを示唆する記録があると知って「ぐぬぬ……」となっているところです。

ウツナイ川

mo-ut-nay?
小さな・肋・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

現在は「声問川」と呼ばれている川の西側を流れている川の名前です。ウツナイ川はかつての「幕別川」と同様に大沼に注いでいる……ように見えますが、地形図をよく見ると、「声問川」に注ぐように人工的な新川を開削したようにも見えます。

明治時代の地形図には「モウツナイ」という名前で描かれていました。永田地名解にも次のように記されていました。

Mo ut nai  モ ウッ ナイ  脇川 沼脇ニ入ル川ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解国書刊行会 p.425 より引用)

永田さんお得意の「ふわっとした解釈」が炸裂していますが、mo-ut-nay であれば「小さな・肋・川」と言ったところでしょうか。ut-nay は「肋・川」と解釈されますが、これは「背骨に対する肋骨のような形をした川」として、本流に合流する手前であえて直交する方向に向きを変える川のこと……とされます。

ただ、この考え方は知里さんの新説と思しき節もあり、松浦武四郎ututka を略したものとして、ut-nay は「脇腹のように波だつ浅瀬・川」と考えていたようです。ut を「脇腹」と考えるか「肋骨」と考えるか、由来は同一でありながら形容する様が全く異なるというのは、なかなか厄介な話で……。

「モウツナイ」と「ホンユシナイ」

ちょっと謎なのが、「東西蝦夷山川地理取調図」では「モウツナイ」が「大沼」の西側からまっすぐ大沼に注ぐ川として描かれています。一方で、現在の「ウツナイ川」は「大沼」の南東を流れています。明治時代の時点で既に現在の位置に「モウツナイ」と描かれているので、川名が移転したのは幕末以降でしょうか。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

 さて此処蒲柳・蘆荻原一里斗も上りて右の方 シフントウホと云沼有。また左りの方本川ハンケホンユシナイ、ヘンケホンエシナイ、マクンヘツ、此処枝川なるが直に又本川と逢也。此辺大沼有。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.531 より引用)※ ルビは引用者による

「左りの方本川ハンケホンユシナイ、ヘンケホンエシナイ、マクンヘツ」とありますが、これは「マクンヘツ」と「ヘンケホンエシナイ」「ハンケホンユシナイ」が同等の川(兄弟川)であるようにも読めます。「ユシナイ」または「エシナイ」というのはちょっと謎ですが、e-us-nay で「頭(水源)・ついている(接している)・川」とかだったりしたら面白いかもしれません。

無理やり話をつなげてみる

e-us-nay が「エシナイ」あるいは「ユシナイ」となり、大沼の西にあった mo-ut-nay と混同されて「モウツナイ」になった……と考えることもできたりしないでしょうか(めちゃくちゃ強引な推論ですが)。

そして「ハンケホンユシナイ」と「ヘンケホンエシナイ」および「マクンヘツ」が上流部では一本の川にまとまっていたのだとすれば、山田さんの「mak-un-pet 分流説」が俄然、有力な仮説に思えてきます。

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (177) 「サンルダム建設中」

道道 60 号「下川雄武線」で雄武町幌内に向かいます。名寄川に続いて、その北支流である「サンル川」を渡ります。

道道 60 号はサンル川の西側を通りますが、途中から山裾に沿って坂を登り始めます。右カーブの先に橋が見えていますが……

前方で荷物運搬用のゴンドラが道道の上を横断していました。改めて地図を見てみると、このあたりに現在はサンルダムの堰堤があります。上の写真を良く見てみると、堰堤の基礎?が見えている程度なので、2016 年時点では「サンルダム」は土台しかできていなかった、ということがわかりますね。

「珊瑠大橋」は何故遠回り?

サンルダム、堰堤の工事はようやく軌道に乗り始めたあたりに見えますが、ダムの湛水たんすいによって水没する区間の道路は既に切り替え済みでした。カーブの緩やかなとても走りやすい道です。

ダム湖を横断する「珊瑠大橋」を渡ったあとは、ずっと左カーブが続いてほぼ 180 度近く向きを変えることになるのですが、「珊瑠大橋」を経由せずにトンネルを掘削することで、距離を半分以下にすることができたようにも見えます。何故遠回りとなる架橋ルートを選んだのでしょう……?(観光的な期待?)

新道区間、終了のお知らせ

サンル川沿いの原野にやってきました。このあたりはダム湖の湛水後も水没することはありません。

ダム建設で付け替えられた新ルートは終わり、以前から存在する区間に戻ってきました。

いきなり、しばらく見かけなかった鋭い右カーブがお出迎えです。路面もやや荒れ気味でしょうか。

「川沿いの原野」の中をゆく

サンル川は名寄川の北支流ですが、支流と言っても結構な規模の川で、しばらく「川沿いの原野」が続きます。このあたりの林は常緑樹と白樺のハイブリッドでしょうか。古いタイプの道道標識も見えますね。

少しずつ残雪が目立つようになってきました。

場所によっては、お約束の霧も……。

「曲線半径 150 m」の S 字カーブが見えてきました。左右は原野なのでまっすぐな道を作れば良さそうにも見えますが、このあたりは右側にサンル川、左側にサンル川の支流の「幌内越沢川」が流れていて、直進すると「幌内越沢川」の流路とぶつかってしまうため、已む無く S 字カーブにしたように見えます。

もちろん、カーブをもっと緩やかにすることは可能なのですが……。

雪解け水を集めた川

道道 60 号「下川雄武線」はサンル川沿いを離れ、幌内越沢川に沿って北に向かいます。引き続き左右に平地が見えることからもわかるように、幌内越沢川もそこそこの規模の川です。

面白いのが、木の生えていないエリアはほとんど雪が残っていないのに対し、林の中には割と潤沢に雪が残っているという点です。日照の違いかと思ったのですが、葉の落ちた白樺林に大きな遮光能力があるようにも思えず……。となると落ち葉が地熱を遮っている、ということなんでしょうか。

以前にも記したかもしれませんが、この時期に雪解け水を集めた川(人工的な護岸などが無ければなお良し)が大好きなんですよね。たまたま「幌内越沢川」を渡る場所があったので、車を停めてじっくり眺めてみました。

この暴力的なまでの力強さがいいですよね……。川の水の源となる残雪は、まだまだ在庫があるようでした。

道道 下川雄武線 北海道

下川町と雄武町の境界となる「幌内越峠」が見えてきました。雄武町の幌内川筋に出るので「幌内越」という、とてもわかりやすい名前の峠です。

青看板を支える柱には、「道道 下川雄武線 北海道」の文字が並ぶ古いタイプのヘキサが取り付けられていました。

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