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隠岐ジオパークの旅 (48) 「今日こそ『水若酢神社』」

今日こそ、今度こそ水若酢神社

隠岐の島町(旧・五箇村)にある「水若酢神社」の話題を続けます。

境内はとても静かな雰囲気です。歴史の長い神社にありがちな、鬱蒼とした森の中をひたすら歩く、と言ったこともありません。また、「玉若酢命神社」の「八百杉」のような目を惹き付ける巨木がある……というわけでもありません。

土俵!

ただ、その代わりに、こんなものがあります。

はい。土俵です。隠岐は昔から神事としての相撲が盛んな土地柄らしく、何かあったらすぐ相撲……ということは無いと思いますが(汗)。伝え聞くところでは、このあたりで先日映画のロケが行われたのだとか。無事クランクアップしたとのことですが、さてどんな映画ができあがるんでしょうねー

右手には社務所も見えます。

門と拝殿

再度、正面を向いてみると……

割とこぢんまりとした門が見えますね。奥には拝殿の屋根も見えます。

門には、これはまた随分と立派な注連縄?が見えます。

門の中から、拝殿を覗いて見ます。

「十六八重表菊」

菊紋が見えますが、これは皇室でも使用される「十六八重表菊」ですね。どこの神社でも目にすることができるかと言えば、決してそんなことは無いような気も……。ちょいと Wikipedia さんに聞いてみましょうか。

「十六八重表菊」が公式に皇室の紋とされたのは、1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第802号による。親王家の菊花紋として十六葉の使用を禁止し、十四葉・十五葉以下あるいは裏菊などに替えることとした。また、1871年明治4年)6月17日の太政官布告第285号で、皇族以外の菊花紋の使用が禁止され、同第286号で、皇族家紋の雛形として十四一重裏菊が定められた。
Wikipedia 日本語版「菊花紋章」より引用)

ふむふむ。やっぱり、そう簡単に使用できるものでは無いということですよね。

1867年(慶応3年)3月28日の太政官布告第195号で、提灯・陶器・貢物などに菊紋を描くことを禁止し、1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第803号で、社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺を除き一切の使用が禁止された。
Wikipedia 日本語版「菊花紋章」より引用)

ひゃー。これって「水若酢神社」は「一部の社寺」だということになるのでしょうか? もうちょいと読み進めてみましょう。

その後、徐々に社殿の装飾や幕・提灯に菊紋の使用を許され、1879年(明治12年)5月22日の太政官達第23号で、一般の社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用することが許されている。
Wikipedia 日本語版「菊花紋章」より引用)

あ、なーんだ。明治 12 年の時点で、既に社寺での「十六八重表菊」の使用は事実上解禁されていた、ということなんですね。びっくりしました。

とりあえず、これで「水若酢神社」が皇室との繋がりが深いのかも? ということがわかりました。皇室=天孫の子孫と考えると、先日の「水若酢命」=「大国主系」という仮説とはちょっとそぐわないようにも思えてきますが、「水若酢命」にまつわる伝承は途絶えて久しいわけで、純粋に「勤王」を考える場として菊の御紋を推戴した、と考えてしまってもいいんじゃないかなぁ、などと思います。

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