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隠岐ジオパークの旅 (92) 「焼火の歩き方(第二夜)」

焼火の歩き方

「『焼火』の歩き方」第二夜です(いつの間にかシリーズ化)。

14:51 に登山道を上り始めて、6 分が経ちました。……むぅ、15 時に到着しないといけないのに……間に合うのかっ!?

焼火トリビア

さて今夜のトリビア(なのか?)です。

祭神
大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。
Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)

ふむふむ。もはやどの字をどう読むと「おおひるめむち」になるのかすら判らなくなってきました。精進せねば! そして、「大日孁貴尊」という名前は初めて聞いたなー……と思ったのですが、

なお、大日孁貴尊は天照大神の別称である。
Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)

あんららら。これは失礼しました。

焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが、後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した。
Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)

といった感じで、もともとは山岳信仰がベースのようです。

やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって、元禄16年(1703年)には「焼火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」(『島前村々神名記』)と伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様3座を同殿に祀ると説くようにもなり、明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった。
Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)

修験道のお社」が何故「伊勢神宮・互換」になったのかが良くわからないのですが、江戸時代に何があったかと言えば、このあたりは「北前船」ブームで盛り上がったみたいなのですね。その辺で全国区の格付けが降って湧いてきた……といったあたりかも知れません。

鳥居が見えたけど

さ。てきとーなトリビアはこの辺にして、先を急ぎましょう。何しろ時間が……(←

おおっ。なにやら鳥居が見えてきました。奥には小さな祠が見えるようです。……神社の本殿はまだ先のようです。

上り坂が続きます。ありがたいことに手すりが完備されているので、道に迷う心配はありません。そしてマムシの気配もありません(!)。

遠く波止(はし)の集落と「弁天鼻」が見えます。

そして 15 時に

そして結局、15 時になってしまいました。

お……? これは……??

ぬわー。これでまだ半分でしたかっ!

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