Bojan International

旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

北海道のアイヌ語地名 (1299) 「西川・ニウシリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

西川(にしかわ)

sum-pet
西・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

新ひだか町静内川合(「川合」は川が合流するから?)から「捫別川」を北に遡ったあたりの地名です。かつての静内郡静内町西川で、現在は正式には「新ひだか町静内西川」です。

北海道実測切図』(1895 頃) には現在の「捫別川」が「シュㇺペッ」と描かれていました。川の左には「佐妻」とありますが、これは「さめ」と読むとのこと(佐妻村: 1871(明治 4)年~1909(明治 42)年)。


なお「サメ」自体は「シュㇺペッ」の北支流だったようで、戊午日誌 (1859-1863) 「茂宇辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て山間え上る哉
     サ メ
左りの方小川。其名義は往昔海嘯の時、此処にて鮫を打上げしと云儀也。依て号るよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.554 より引用)

えー……。良くある「津波の際にここまで○○が上がった(から地名にした)」説ですが、この手の説話は大体ウラがありそうな印象があるんですよね……。

角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

捫別川上流のシュンベツ(西の沢) の流域にあたることから命名

「西川」は sum-pet で「西・川」に由来する……ということになりますね。あまりにそのまんまですが、アイヌ語意訳地名ということになるかと。

ニウシリ川

ni-us-sir
木・多くある・山
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

新ひだか町静内西川で「捫別川」に合流する西支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ニウㇱュナイ」と描かれています。


ただ興味深いことに、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ニウシリ」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「茂宇辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ニウシリ
左りの方小川。其名義は木多き山と云儀也。本名はニウシシリと云也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.554 より引用)

ni-us-sir で「木・多くある・山」のようですね。となると何故「実測切図」は「ニウㇱュナイ」と描いたのか、という話になります。「ウュ」というのは永田地名解 (1891) の有名な癖ですが、やはりと言うべきか、永田地名解には次のように記されていました。

Ni ush nai   ニ ウシュ ナイ   樹木多キ澤

これはちょっと評価が難しいのですが、松浦武四郎は「左りの方小川」として ni-us-sir という地名を記録しています。ただ sir は「山」や「土地」を意味する語なので、本来は川の名前としては相応しくありません。

その一方で、永田方正は ni-us-nay で「木・多くある・川」としました。「川の名前」としては極めて妥当なものですが、実際にそう呼ばれていたのか、それとも永田方正が「川の名前に sir はおかしい」と判断してを試みたのか……。

ここまで見てきた限りでは、永田地名解が「独自の判断」で記録に手を加える可能性は十分にありそうな気もします。松浦武四郎は基本的にこのあたりの「校正」を加えることは滅多に無く「変だと思うけどそのまま記録する」というスタンスなので、結果的により貴重な記録となった……ような気がします。

現在の川名は「ニウシリ川」ですが、これは「実測切図」の「ニウㇱュナイ」という川名を否定した……と見ることもできます。「アイヌ語地名の権威」だった永田方正の加えた「修正」が「なかったことにされる」というケースが思いのほか多い印象もありますが、これは地元で「違う、そうじゃない」という声が多かった……ということなのかもしれませんね。

前の記事

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International