どうにも気分が晴れないので困ったものなんですが、それはさておき。まがりなりにも「ほぼ毎日更新」でやっているので、親愛なる読者の皆様にはご迷惑をおかけします。
ムジカ! ムジカ!
さてっ。ひょんなことから福井県は敦賀市の地図を見ていたわたくし。JR 敦賀港線という貨物線のまわりを見ていたのですが、「人道の港敦賀ムゼウム」なる建物を発見しました。
「ムゼウム」と言うと、なんか「バリウム」とか「カリウム」みたいな化学物質パチパチ(どんな擬音だ)のような感じも受けますが、まぁ、多分「ミュージウム」のことなんでしょうね。どこかの言葉で「むぜうむ」と言うのかも知れませんし、あるいは「あいすくりん」「ぎやまん」「メリケン」のような「昔風のカナ表記」なのかも知れません。
改めてググってみたんですが、どうやら単にドイツ語のようですね。なぁんだ。ドイツ語だったら「ムゼウミッテンハウゼン」ぐらいの長さが欲しいです(←
あ、「敦賀ムゼウム」の「ムゼウム」はポーランド語でしたか。それは失礼を……。
ビザ濫発で町おこし(←
人道の港 敦賀ムゼウムの Web サイトを見てみると、なるほど、ロシア革命のゴタゴタでシベリアに残された「ポーランド孤児」と、かの杉原千畝が濫発した(←)ビザで渡ってきた「ユダヤ人難民」が上陸した港、ということをネタに町おこしを……ゲフンゲフン。
ちなみに、この「人道の港 敦賀ムゼウム」ですが、オープンしたのが昨年の 3/29 だそうですから……知名度はまだまだ、なんでしょうね。8 ヶ月で来訪者が 1 万人とのことですから、この Blog の来訪者数とあんまりペースも変わらないみたいですし(←
まぁ、町おこしにはならないにしても、人道教育という意味では意義のあることだと思いますので、このままのんびりと続けてもらいたいものですね。多分赤字垂れ流しだと思いますが……(←←
というわけで、杉原千畝さんについて
びみょうに尺が足りないので、引用大作戦行きます!(←
概略
第二次世界大戦中、外務省の命令に反してトランジットビザ(Transit visa. 通過査証、通過ビザとも。以下ビザと記載)を発給することでドイツによる迫害から約 6,000 人のユダヤ人を救った。
海外では、センポ・スギハラ、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばせた理由は主に「ちうね」という発音のしにくさから、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
「センポ・スギハラ」というのは……有職読みですね(だからどうした)。
1947 年(昭和 22 年)に日本へ帰国、神奈川県藤沢市に居を据え、同年 6 月 27 日に外務省を依願退職した。なお、ビザ発給の責任を負わされた形でリストラされたとする説もある(後述)。しかし、政府の公式見解は、「現在まで、杉原が外務省から懲戒処分を受けたという記録は見つかっていない」である。
なるほど……。笑い事ではないですが、なんかありそうな話ですね。
言葉として「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 」が残されている。
この考え方はわかりやすいですし、共感できます。あやかりたいものですね。
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