やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
江差(えさし)
かつて「檜山支庁」が設置されていて、現在はその後継である「檜山振興局」が設置されている町です。檜山地方は道南の西半分を指しますが、熊石町が東側の八雲町と合併してしまった関係で、乙部町とせたな町の間でエリアが分断されてしまいました。檜山振興局の所管となる自治体は江差町・上ノ国町・厚沢部町・乙部町、飛び地としてせたな町と今金町、海の向こうに奥尻町です。
江差は古くから栄えた港町ですので、記録も古くから残されています。まずは上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」から。
江 指 泊所 辯財船澗有 上の國村へ一里二十七町
夷語エシヤシなり。則、尖く出たる崎といふ事。此崎海岸へ出て澗内になる故、地名になす哉。未詳。
多氣志樓主人(松浦武四郎)の「蝦夷地名奈留邊志」には次のように記されていました。
江差
前に云か如し
え、ということで少し遡ってみたところ……
エサシ
エは喰す義 サシは昆布のこと
という記載が見つかりました。これは北見枝幸の解ですが、檜山江差も同じ解だ、という主張なのでしょうね。
B・H・チェンバレンの「アイヌ語地名の命名法」には、また違う解が記されていました。
Esashi エサシ(村、郡) エサシ Esash おそらく「火山岩滓」と sash「沸きたつ」「鳴りひびく」に由来。
江差については、あのバチェラー氏も自説を開陳していました。
ESASHI(江差)── Esash-kotan「波の寄せる所」または「寄せ波が音を立てる所」。
さぁ、もはや何がなんだか訳がわからなくなってきました(汗)。続いて永田地名解を見ておきましょうか。
Esashi エサシ 昆布「エサシ」ト云ヒ「サシ」ト云フ並ニ昆布ノ義ナリ 北見國枝幸モ亦昆布ノ義ナリ然レトモ岬ヲ「エサシ」ト云フコトアリ故ニ舊地名稱ニ「エサシ」ハ山崎ノ義トアルハ誤ニアラス二説並ニ行ハル
強気な永田っちにしては珍しく「諸説あります」という立場のようですね。全体的には松浦武四郎の「昆布」説を推しているようなのも不思議な感じがしますが、インフォーマントからの情報だったのでしょうか。
江差には「江差線」という鉄道が通っていました。ということで「北海道駅名の起源」にも記載があります。
江 差 (えさし)
所在地 (渡島国)桧山郡江差町
開 駅 昭和 11 年 11 月 10 日
起 源 アイヌ語の「エサシ」(みさき)から出たものである。むかし江差の中心は津花岬(つばなのさき)付近にあった。
おっと、今度は上原熊次郎の「岬」説が復活を遂げていますね。これはどうやら知里さんの説だったようで、山田秀三さんの「北海道の地名」に次のようにまとめられています。
江差 えさし
檜山支庁内の町名。江差を「昆布」とする説と「岬」とする説が従来行われたが,知里真志保博士は,北海道南部では,昆布をサシとはいわないとして昆布説を否定し,またエサシを「エ・サ・ウシ・イ(e-sa-ush-i 頭を・浜に・つけている・者)。つまり岬」と分析して説明した。
はい。e-sa-us-i で「頭・浜・つけている・もの」と解釈したのでしたね。知里さんは北見枝幸も全く同じ解釈で考えられると見ていたようです。
ということで、紛糾した「江差」の地名解もおおよそまとまった……と思ったのですが、「角川──」(略──)にこんな記載があるのを見つけてしまいました。
地名の由来は,アイヌ語で「尖く出た崎」という意のエシャシによる説(蝦夷地名考井里程記),昆布を意味するエサシによる説(北海道蝦夷語地名解)が古くから一般的であったが,「悪い砦」という意のウエンチャシからの転訛である(ユーカラ研究)という説が出され,最近では後者の説が有力である(江差町史 5)。
えっ。wen-chasi 説というのは初めて聞きましたが、今はこの説が有力なんでしょうか……? 「なぜ有力なのか」がとっても気になりますね。これだけの情報では流石にちょっと判断できないので、今日のところは知里さんの説を疑問符付きで紹介しておこうと思います。
五勝手(ごかって)
江差町南部の地名で、元々は「五勝手村」という村がありました。風変わりな地名ですが、どうやらこれもアイヌ語由来の地名ではなかろうか……ということのようです。
手持ちの資料の中では、唯一「角川──」(略──)に記載がありました。
ごかって 五勝手 <江差町>
檜山地方南部,五勝手川(武者見川ともいう)流域。地名の由来は,アイヌ語で,波を突出す所とか,波のくだける所という意のコカイテによるという。
ほう……。なるほど、そう来ましたか。「五勝手」がアイヌ語に由来するのであれば、という限定が必要ですが、koy-kaye であれば「波・折る」となりますね。あるいは koy-kaye(-i) で「波・折る(・もの)」あたりだったかも知れません。
ただ、地図を見ていて、ちょっと気になったことがあります。五勝手川の河口の南側には「相泊岬」(羅臼の「相泊」と同じ由来ではないかと思ってます)という岬があるのですが、岬の先にかなり大きめの岩礁?があるように見えるのですね。当時のアイヌがこの特徴的な地形を無視したとは何となく思えないのです。
そう考えてみると、koy-ka-tes で「波・上・岩盤」という解釈が成り立ったりはしないかな、と思ったりするのですが、いかがでしょう? koy-ka を方位としてではなく、そのまま解釈するところが珍妙かもしれませんが……。
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