やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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赤泊(あかどまり)
崖(岬)・泊地
浜中町
「初航蝦夷日誌」には「トマリ」という地名が記録されていて、「東西蝦夷山川地理取調図」には「レツハモイ」という地名が描かれていました。明治時代の地形図には「アカトマリ」と描かれていますが、永田地名解は「東西蝦夷──」に準拠した「レㇷ゚ パ モイ」という地名が記録されていました。
Rep pa moi レㇷ゚ パ モイ 沖方ノ灣
rep-pa-moy であれば「沖・かみて・湾」かな……と思いかけたのですが、rep-pa-moy は「三つ・頭(崎)・湾」なのでしょうね。地形を見ると、岬状の地形が三つ(四つかも?)あるように見えるので……。
明治時代の地形図には、松浦武四郎が記録し永田方正がちょいとズレた解を記録したんじゃないかと思しき「レッパモイ」という地名の代わりに「アカトマリ」と描かれているのですが、問題はこれをどう解釈するか……です。
答かもしれないものが「地名アイヌ語小辞典」にありました。
aka アか【K】魚体の腹線を pisoy, -e/-he 〔ピそィ〕,側腹線を chep-ikiri 〔チェぴキリ〕 [魚・の線] と云うに対し,背線を aka と云う。地形では尾根(山稜)をさす。北千島にもある語で崖又は岬をさすと(千島アイヌ49, 165)
なんと、こんなに都合の良い語があったのですね(汗)。aka-tomari は「崖(岬)・泊地」と解釈できてしまいそうです。
かつての「レッパモイ」が「アカトマリ」になったのでは……との仮定も加味すると、「アカトマリ」を「崖(岬)・泊地」と解釈できるんじゃないか……と考えているのですが、明治以前には「アカトマリ」という地名の存在が確認でいていないため、和名の可能性も捨てきれないというのが正直なところです。
羨古丹(うらやこたん)
梁・のような・集落
浜中町
「初航蝦夷日誌」には次のように記されていました。
下り而
ウラヤコタン
番屋壱軒有。海岸暗礁多し。又ヲライ子とも云り。
また戊午日誌「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。
其処巾百五六十間転太石浜、こゝを
ウラヤコタン
と云。本名はヲライ子コタンなるなり。
どうやら「ヲライ子」あるいは「ヲライ子コタン」という別名?があったようですが、「午手控」には次のように記されていました。
ヲライ子コタン ウライを昔し立しと云
uray は「
「ウライ」が「ウラヤ」に化けた?
「ウライ」が「ウラヤ」に化けた(かもしれない)問題について、更科源蔵さんは「アイヌ語地名解」にて次のように記していました。
羨戸丹(うらやこたん)
浜中海岸の部落。アイヌ語のウライ・ヤ・コタン(簗網の部落) で、もっばらここの小川に簗をかけるために、小屋がけをしたところであろう。
なるほど、uray-ya-kotan で「
消えた「子 」
ただ、他にも気になる点が……。松浦武四郎は「ウラヤコタン」と記録しつつ「ヲライ子」という別名があるとし、また「ヲライ子コタン」が「本名」だとしているのですね。「ウラヤコタン」と「ヲライ子コタン」は別名と考えるにはちょっと似すぎているようにも思えますし、「ヲライ子コタン」が転訛して「ウラヤコタン」と呼ばれるようになった可能性も考えたくなります。
となると「ヲライ子コタン」は uray-ne-kotan である可能性が出てきます。問題は -ne をどう解釈するか……なのですが、ここは素直に「
「
もしかしたら
あと、「ウラヤコタン」の本名が「ヲライ子コタン」という話からは、もしかしたら元は o-rawne-nay? で「河口・深い・川」だったのが、いつの間にか uray-ne-nay? で「
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