さて、そのラッテストーン公園の一角に、怪しげなものが見えます。
壕 空 防
よーく見ると、入り口のところに「壕 空 防」と書かれているのを読み取ることができます。中文じゃないですよ。右から読んでください。
見取り図はこちら。入り口は一つではなく、中で繋がっていたようです。
ちなみに、この防空壕、1940 年ごろに、日本軍が、現地の茶も魯迅、じゃなくてチャモロ人を強制動員して作らせたとか。真珠湾攻撃が 1941 年 12 月 7 日(現地時間)のことですから、その一年以上前から、グアムが戦場になることを想定して、軍は準備を進めていたことになります。
だからと言って、これが極東国際軍事法廷(いわゆる「東京裁判」)でのキーポイントとなった共同謀議が存在した裏付けとなる、とは思っていませんけどね。仮想敵国に対する備えを怠らないのは、近代国家の常識だと思いますので……。
そういう意味では、むしろ今の日本のほうが、近代国家としてはどうなのよ、とも思えて来ますが、論点が軌道を大幅に逸れてしまっているので、この話はこの辺で。
アプガン砦にてスペイン統治時代の遺産を見る
それから、次に回ったところが、えーと……。「アプガン砦」というところだったのですね。クラシックな大砲があるのですが、これはさすがに旧日本軍の遺物ではありません(いくらなんでも古すぎる)。
マリアナの歴史を振り返ってみる
そもそも、なんでグアムに日本軍が防空壕を建設できたのか、という歴史的経緯を考えると、グアムはもともとドイツ領で、第一次世界大戦にてドイツが敗北を喫した際に、日本領(正確には、日本の信託統治領、だったかもしれません)になった、という話だった筈です。ところが、先程の「スペイン広場」を始め、ドイツを思わせるものよりもスペインを思わせるものが多く、「あれれぇ?」と思っていたわけですが……。
あわてて Wikipedia の記事を読み返したりしているのですが、どうにも良くわからなくなってきました(笑)。北マリアナ諸島に関する Wikipedia の記事を読むと、これらの島々の諸外国による統治の歴史は、こうなるのでしょうか。
グアムの歴史を振り返ってみる
ただ、グアムの場合は、「北マリアナ諸島」とは少々経緯が異なるようで、
となるみたいです。カンのいい方は大いなる矛盾にお気づきですね。太平洋戦争が始まる前(1940 年)から、なんで日本軍は現地人を強制動員して、アメリカ領のグアムに防空壕を作ることができたのでしょう。わけがわからなくなってきました。
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