Bojan International

旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

アイヌ語地名の傾向と対策 (554) 「稲牛・キムクシデイナウシュベツ川・雪解内の沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

稲牛(いなうし)

inaw-us(-pet)
木弊・多くある(・川)
(典拠あり、類型あり)

足寄町中足寄で「稲牛川」という川が南から足寄川に合流しています。足寄町稲牛自体は稲牛川を少し遡ったところの地名です。

戊午日誌「東部報十勝誌」には次のように記されていました。

また少し上りて右のかた
     イナウシベツ
相応の川也。此処当時クスリ、トカチの境目となりて在る也。イナウシはイナヲウシ也。此処土人等上り下りの時に、自分の村を出て他え行事なれば、爰にて木幣を作りて道祖神に納めて、道中無事を祈りて行が故に、エナヲ多く有よりして号る也。爰に当時標柱を立たり。其前に志るす土人は、皆此標柱の傍に落跡せり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.329 より引用)

明治の頃の地形図を見ると、現在とは(自治体の)境界線が全然異なるところに引かれていることに気づきますが、確かに足寄郡釧路国)と中川郡十勝国)の境界線が稲牛川沿いに引かれていました。稲牛川が足寄川と合流した後も、足寄川の北側が足寄郡で、南側が中川郡でした。

更に言うと、足寄から北も利別川が両郡の境界となっていました。利別川足寄川の間が足寄郡で、利別川の西側および足寄川の南側が中川郡でした。つまり、現在の足寄の市街地は中川郡に属していたことになります。


本題に戻りますが、稲牛川は足寄と釧路の間の交通路として古くから利用されていたようで、イナウシは道中の安全を祈願するために収めた木弊(イナウ)があったことに起因する地名とのこと。inaw-us(-pet) で「木弊・多くある(・川)」だったのでしょうね。

キムクシデイナウシュベツ川

kim-kus-{inaw-us}-pet?
山側・通る・{稲牛}・川
(? = 典拠未確認、類型多数)

稲牛川の本流を遡ると、最終的にはウコタキヌプリの西側を南に向かい、峠を越えると本別川に出ることになります。川沿いの林道は「本別沢連絡林道」という名前で呼ばれているようで、峠を越えた先では「本別沢林道」そして「オネトップ林道」と呼ばれることになります。

そのため、稲牛川を遡って釧路に向かうには、途中で稲牛川の本流から逸れて、北支流である「キムクシデイナウシュベツ川」沿いを歩くことになります。kim は(概念としての)「山側」、kus は「通行する」という意味でしょうから、kim-kus-{inaw-us}-pet は「山側・通る・{稲牛}・川」ということになります。読みやすくすると「稲牛越山道」とでもなるのでしょうか。

そろそろ「で?」とツッコミを入れる方がいらっしゃるのではないかと想像するのですが、kim-kus-inaw-us-pet であれば「キムクシデイナウシュベツ」の「」が出てこないことになります。イタリアあたりの人名だったら「デ」があっても何ら不思議では無いんですが……。

たとえばアンドレア・デ・チェザリスみたいに。


この「デ」はどうしたものか……と思っていたのですが、昔の地形図(の模写)を見ると、この川(厳密には現在の「雪解内の沢川」に近い位置ですが)に「キムクシュイナウウシュペツ」と記されていました(永田さんテイストで「ㇱ」が「シュ」になっていますね)。これを見て思ったのですが、「キムクシュ」を「キムクシデ」と見間違えたのではないかと。

「デ」の出自については推測の域を出ていませんが、少なくとも、この地形図が作成された頃は kim-kus-inaw-us-pet と認識されていたことは間違いないと思います。

雪解内の沢川(ゆきどけないのさわ──?)

yuk-e-toy-nay?
シカ・食べる・土・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

密かに楽しみにしていた川名にようやくたどり着きました。これは「ゆきどけないのさわ」と読むのだと思いますが、このちょっと詩的な名前が実はアイヌ語由来だったりしないかな、と期待していたのでした。

昔の地形図を見てみたところ、現在の「雪解内の沢川」の位置ではなく、「開和橋」から 1.5 km ほど西側(牧場?らしき建物が点在しているあたり)を流れる川の名前として「ユケトイナイ」と記されていることがわかりました。とりあえず、この「ユケトイナイ」?が「雪解内」になったのではないか、と考えられそうです(!)。

戊午日誌「東部報十勝誌」には次のように記されていました。

またしばし過て、ム(ユ)ケトイ、左りの方小川。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.329 より引用)※ カッコ内の註は解読者によるもの


おお、少なくとも「ムケトイ」という記録はあるということですね! 「ムケトイ」あるいは「ユケトイ」でどう解釈できるだろう……と考えてみたのですが、yuk-e-toy-nay であれば「シカ・食べる・土・川」と解釈できそうなことに気づきました。

アイヌはアク抜きの調味料として「食用土」を用いていたことは良く知られていて、食用土の取れる場所には chi-e-toy という地名をつけていました(たとえば本別の「チエトイ」など)。

chi(我ら)ではなく yuk(一般的には「シカ」の意)が食む土とはどんなものだろう……という話になりますが、エゾシカが線路に侵入するのはレールを舐めて鉄分を補給するため、みたいな話がありますよね。そんなところから、「シカが食む土」も鉄分などのミネラルに富んだものだったのかな、と想像してみたりしました。

それにしても、「ユケトイナイ」に「雪解内」という字を当てるセンスはお見事としか言いようがないですね。ええ、とても気に入りました!

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International