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アイヌ語地名の傾向と対策 (165) 「佐久・安平志内川・神路」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院電子国土Webシステムから配信されたものである)

佐久(さく)

sak-kotan
夏・集落
(典拠あり、類型あり)

中川町南部の地名で、音威子府村から西流してきた天塩川に、南から北流してきた安平志内川が合流するあたりです。宗谷本線に同名の駅もあります。「佐久」と言えば長野県の地名ですが……。更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょう。

 信州佐久と同じ地名であるが信州から来た地名ではない。

ほっとしました(笑)。仮にも「アイヌ語地名の──」と銘打っている以上は、「佐久からの移住者が多かったため」というオチでは拙いので。

むしろ信州の方のものがアイヌ語であったかもしれない。
更科源蔵更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.174 より引用)

うわぁお。これはまたダイナミックな仮説を……(笑)。

宗谷線佐久駅のある佐久は、現在佐久川と呼ばれている川の名から出たもので、もとサッコタンナイと言い、この川が天塩川にそそぐ所の崖をサクコタンピラ(サクコタンの崖) と呼んでいた。
更科源蔵更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.174 より引用)

へぇー、と思って地図を確かめてみたのですが、地形図を見ると現在も「サッコタン川」という名前になっています。名前が先祖返りしたのでしょうか。面白いですね。

おかげで、これで意味が明らかになりました。sak-kotan で「夏・集落」ですね。積丹半島と同じ名前だったようです。

サㇰコタンとは、夏の集落の意味だが、元来アイヌは夏は海岸で漁携の生活をしていて、川筋へは秋から冬になってから入って集落をつくるが、ここは天塩川の最も大きな支流安平志内川の合流点なので、夏でも生活が営める豊かな土地であったので、こう名付けたものと思う。
更科源蔵更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.174 より引用)

ふむふむ。夏でも安定して暮らすことができた、ということですか。ただ、冬はどうしたのでしょうね。佐久のあたりでも十分寒いと思うのですが……。

安平志内川(あべしない)

a-pes-nay?
我ら・沿って下る・川
apa-us-nay??
戸口・ついている・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠未確認、類型あり)

天塩川の支流の一つで、天塩川と遠別川の間の地域を流域としています。これはなかなかの難読河川名ですよね……。アベしない?

山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

天塩川の南岸の大支流の名。佐久市街の対岸の処で本流に入る。松浦氏天塩日誌は「源はウエンヘツと並び雨竜の方に至る」と書いた。この川を少し上ると西支流にルペシペ(峠道沢)があり, それを上って遠別川に出るのが日本海側との近路であった。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.142 より引用)

ちょっと紛らわしいのですが、安平志内川の支流に「ワッカウェンベツ川」というのがあるのですね。その西側に郡境の山があって、その先は遠別川の流域です。松浦武四郎の言う「ウエンヘツ」は遠別川のことだと思うんですよね。ちなみに「ルベシベ川」は現在もあって、源流を溯って峠を越えると、ウツツ川の源流部に辿り着きます。

また安平志内川を源流まで上って山を越えると雨竜川の水源で古くからの通路だったらしい。
山田秀三「北海道の地名」草風館 p.142 より引用)

これはその通りですね。朱鞠内湖の北側、ブトカマベツ川の源流あたりに辿り着くことができます。現在は中川から朱鞠内に向かう道は失われていますが、昔はそれなりの交通路だったのかも知れませんね。

「あべしない」の由来は a-pes-nay とのこと。意味は「我ら・沿って下る・川」です。古くからの交通路に相応しい名前ですね。

2021/6 追記
apa-us-nay で「戸口・ついている・川」と解釈できるのではないか、と考え始めています。川を遡る途中に衝立のように山が聳えていて(地図に「安平志内川」とマークしたところです)、それが住居の入り口のように見えるということが理由で、似たような川がいくつか存在するようですので。

神路(かみじ)

kamuy-ru-e-san-i
神・路・そこから・下りてくる・所
(典拠あり、類型あり)

中川町の東部、天塩川沿いの地名です。……いや、地名でした、が正確かも知れません。現在は地形図には記載がありません。そう、まるで何も無いのです。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されています。

宗谷本線の駅名であり、同じ名の中川町の部落もある。昔、天塩川を丸木舟で上下したアイヌの人達は、崖が川岸にせり出している山(現在神居山とよんでいる) をカムイ・ルエサニと呼んでいた。
更科源蔵更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.174 より引用)

ふむふむ。kamuy-ru-e-san-i で「神・路・そこから・下りてくる・所」となりますね。「神様が下りてくる路」だから「神路」、ということのようです。

「カムイ」という言葉は様々な捉え方があるのですが……

松浦武四郎の『天塩日誌』には「往昔爰えエナヲを供えず通しかば岩面崩て下行船を破きしと神威著しきとて土人等惣てエナヲと煙草米等を一摘づつを供て上る」とあり、魔神がいて下を通る舟に岩をなげおろす危険な場所としておそれた所である。
更科源蔵更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.174 より引用)

ふむ、やはり。旭川神居古潭と同じですね。ここのカムイもアイヌに試練を与えるカムイだったようです。

一方で、地形図を見る限り、宗谷本線の神路駅があった(過去形なのです)あたりは川岸の平らな高台であるように見えます。ただ、よーく見ると道路がありません(線路はあるのですが)。もちろん天塩川にかかる橋もありません。

この辺の歴史をちょいと追っかけてみましょうか。

この神路地区は1965年までは住民が住んでいたが、全戸撤退した。この地区へは鉄道以外の交通機関がなく、1963年3月に国道40号線と同地区を結ぶ吊り橋、神路大橋が完成したが、わずか9ヶ月後の同年12月18日に神路地区周辺の山から発生する冬独特の気象(地方風)が原因で落橋した。現在も橋はなく、急流である天塩川を船などで渡ることも危険であり、事実上到達は不可能である。
Wikipedia 日本語版「神路信号場」より引用)

……こんな歴史があったのですね。1965 年に「全戸撤退」とありますが、直前の 1963 年に新しい橋があっさりと落橋してしまったのが大きかったのでしょうね。まさにカムイが牙を剥いたとも言うべき出来事だったのではと思います。

全戸離村により利用者が皆無となったため1977年(昭和52年)5月25日に信号場兼仮乗降場に格下げされた。完全な廃止にしなかったのは当駅を挟む駅間距離が長く(約18 km)交換設備が必要であった事情による。仮乗降場でもあるため1日1往復に限り乗降は可能であったが、周囲は当時既に無人地帯であったため乗降客は極めてまれにしかいなかったようである。そのため、後に客扱いが廃止されている。
Wikipedia 日本語版「神路信号場」より引用)

その後、1985 年には信号場としても廃止されてしまいます。集落が無くなり、信号場が無くなり……やがては地形図からもその名前は消えてしまったのでした。

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