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アイヌ語地名の傾向と対策 (647) 「幌新・幌比里・真布」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幌新(ほろしん)

poro-nitat-pet
大きな・谷地・川
(典拠あり、類型あり)

沼田町の西部を北から南に流れる「幌新太刀別川」沿いの地名で、「幌新ダム」の近くには「ほろしん温泉」もあります。

川名の「幌新太刀別」を「ほろにたちべつ」と読めた時点で、かなり正解に近づきます。poro-nitat-pet で「大きな・谷地・川」と考えるしか無さそうですが、念の為永田地名解を見ておきましょうか。

Poro nitachi pe  ポロ ニタチ ペ  大吥坭

概ね良さそうな解釈だなぁ……と思ったのですが、山田秀三さんは旧著「北海道の川の名」で、次のように文法的な問題を指摘していました。

 「やち」は nitat、「そのやち」が nitachi である。永田氏の書いた形の場合には、pe は「もの」ではない(その意味の pe は、母音の後にはつかない。また、名詞の後にもつけない)。強いていえば「水」である。自然な形でいえば、Nitat-pet(やち・川)であったろう。
山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.44 より引用)

確かにそうですね。まぁ言っても明治の人の調査ですし、体系的なアイヌ語の文法書なんてものも無かったでしょうから、こういったおかしな点は他にも色々とありそうな感じです(だからと言って「永田地名解」の価値が下がるものではないことは、衆人の認めるところです)。

本題に戻りますが、「再篙石狩日誌」には次のように記されていました。

またしばし行て
     ホロニタツコヘツ
左りの方相応の川なり。是をまたハンケニタツコベツとも云よし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.343 より引用)

「ホロニタツヘツ」かと思いきや、どこからか「コ」が出てきました。あれっと思って「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、今度は「ホロニタツコムシベ」と記されています。もしかしたら、元々は poro-nitat-kom-us-pet で「大きな・谷地・曲がり・多くある・川」で、それが poro-nitat-kom-pet と略され、poro-nitat-pet となったところで「幌新太刀別川」になった……と言ったところかもしれません。

そして「幌新太刀別」が更に略されて「幌新」になったと思われるのですが、どうやら本来の「ポロニタチペ」は JR 留萌線真布駅のあたりから雨竜川に注ぐまでの名前だったようです。現在の「幌新」のあたりを流れる川は「ポロニタチペ」ではなく「エピシュオマㇷ゚」(恵比島e-pis-oma-p)か「ペンケシルト゚ロマップ」(penke-sir-utur-oma-p)だったと考えられます。

幌比里(ほろぴり)

poro-piri?
大きな・あの傷
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

JR 留萌線の「恵比島駅」の近くから、幌新太刀別川を少し北に遡ったあたりの地名です。永田地名解には「ポロ ピリ」で「大渦」という記載がありましたが、前後関係を考えると恵比島の近くの「幌比里」のことでは無さそうです。参考までに引用しておきますと、以下のような内容でした。

Poro piri  ポロ ピリ  大渦 好漁場ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.59 より引用)

pir(i) には「渦」という解釈と「傷」という解釈があるのですが、恵比島の近くの「幌比里」の場合はどっちが適切でしょうか。少し考えてみたのですが、地理院地図で「幌比里」と記されている一帯の西側に川が流れていて、その川が割と直線的に流れているので、これを「大きな・傷」と呼んだ可能性もありそうです。

ということで、poro-piri で「大きな・あの傷」ではないかと考えてみました。

真布(まっぷ)

panke-sir-utur-oma-p
川下側の・山・間・そこにある・もの
(典拠あり、類型あり)

JR 留萌線の石狩沼田と恵比島の間に「真布駅」という駅があるのですが、元々は仮乗降場で駅に昇格したのが JR 北海道の発足時だったため、残念ながら「北海道駅名の起源」には記載がありません。

「真布」の集落自体は「真布川」を遡った中流域にあります。戦前の陸軍図では、「真布」ではなく「白採眞布」と記されていました。そして明治時代の地形図では、現在の「真布川」のところに「パンケシルト゚ルマプ」と記されていました。panke-sir-utur-oma-p で「川下側の・山・間・そこにある・もの」と読み解けそうです。

なお、明治時代の地形図を見ると、現在の「幌新ダム」のあたりに「シルト゚ルノシュケオマㇷ゚」と記されています。また「パンケシルトルマプ」を「パンケシルトルノシュケオマプ」と記した地図も見かけました。

panke-sir-utur-noske-oma-p であれば「川下側の・山・間・真ん中・そこにある・もの」となります。この表記が実際にそのように認識されていたことを示すのか、あるいは単に手が滑ったのかは不明ですが、一応ご参考まで。

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