やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
当縁川(とうべり──)
旧・忠類村(現在の幕別町)から大樹町を経て太平洋に注ぐ川の名前です。包丁を持った緑色のアレをつい思い出してしまいそうな地名ですが、どうにも意味が良くわかりません。ということで、早速ですが山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。
当縁 とうべり
ホロカヤントウから西南約2キロの処に当縁川があり,その川筋に当縁の地名あり。松浦図はその川口に大きな海岸の沼をかいているが,明治29年5万分図では,もう湿原化していた。その沼がこの名のもとのようである。
地形図を見ていても、「河口部が大きな湿原になってるなぁ……」と思っていたのですが、どうやらこの湿原が地名の元となっているとのこと。確かに特徴的ですからね。
古くはトープイであったが,それに当縁という字を当てられ,読みにくいからか,だいぶ前から「とうべり」になった。
あっ、なるほど。「プイ」に「縁」という字を当てるのもなかなか変ですが、それを「べり」(へり)と読むようになったというのも輪をかけて変わってますよね。
上原地名考は「トヲブイとは沼の穴と訳す。沼の内に夷人クリモントといふて大なる穴のあるゆへ地名になすといふ」と書いた。トー・プイ(to-pui 沼・穴)という解である。
おやおや。「クリモント」と言えば、知里さんの名作「アイヌ語入門」で「幽霊アイヌ語」として取り上げられていたものですが、こんなところで目にするとは。to-puy で「沼・穴」というのは、「トーブイ」という音から自然に導かれる解ですが、今ひとつ地名としてしっくり来ない感も拭いきれません。
松浦武四郎の「東蝦夷日誌」には、次のようにあります。
トウブイ〔常縁〕(番屋一棟、板蔵、人足小屋、土人三軒、前に土手有、是は南東風を防ぐ爲也)土地巳午向、下に川口有(船渡)。左り沼、右川筋になる。名義、沼口と云儀。また流泉花(エンコサウ)此沼に多きが故とも云り。此邊鰯(いわし)漁多し。
「名義、沼口と云儀」とありますが、この文からは to-put-i(沼・口・ところ)のようにも読めます。また「流泉花」に「エンコサウ」というルビが振られていますが、これは「エンゴサク」のこと……ではなく、「エゾノリュウキンカ」のことだと思われます(puy は「エゾノリュウキンカの球根」という意味もあります)。
一方で、同じく松浦武四郎の薄い本……じゃなくて「按東扈従」には次のようにありました。
平地少し斗行て
トウブイ
地名トウブイは沼の破れし口と云事なりと。川有、船渡しなり〈川番レクタマ〉。此上に沼有て川水出る時は広し。上りて通行番屋一棟〈百二十六坪〉、板蔵一棟、人足小屋一棟有。後ろに番屋元の土人三軒斗有るなり。此処も昔しは二十余軒も有しと聞。土地礁石接りにて不宜なり。前に標柱〈ヒロウ会所へ七里八丁、ヲホツナイヘ六里十四丁〉有。
薄い本(やめなさい)には、由来は「沼の破れし口と云事なり」と記されています。「東蝦夷日誌」とほぼ同じ解ではありますが、「沼口」と「沼の破れし口」の違いをどう考えるかによって、答えが変わってきそうな気がします。別の言い方をすると、「破れし」という意味を拾える解が無いかな? という話です。
私見ですが、to-pus-i であれば「沼・破れる・ところ」と解釈できます。「トーブイ」という当時の音からは to-put-i 説も捨て切れませんが、「沼の破れし口」という当時の記録が潟湖の多い地形とマッチしていることもあるので、とりあえず前者をプッシュしたいなぁ……と思っています。
アイボシマ川
当縁川の西、大樹町を流れる川の名前です(一部は旧・忠類村を通ります)。なかなか見ないタイプの川名ですが、一体どんな意味なのでしょう。
幸いなことに、山田秀三さんの「北海道の地名」に記載がありました。
アイボシマ
相保島とも書く。大樹町内の川名,地名。
おお、それっぽい字が当ててあったのに普及しなかったんですかね。川名は今も「アイボシマ」のままです。
永田地名解は「アエポシマㇷ゚。食物入り来る処。往時飢饉に困しみたることありしが,図らずも魚入り来り饑餓を免かれたり。故に名くと」と書いた。aep-oshma-p(食物・入った・処)の意。上原地名考がアエボシマムと書いたのは,p が m に訛って呼ばれていたからであろう。
確かに、永田地名解の p.292 にこのように記載されていますね。ちなみに続きがあって「舊(旧)地名解ノ説未ダナリ」とあります。どういう意味なんでしょう……?
松浦氏東蝦夷日誌は「アエブシユマム。弓勢(ゆんぜい)を試みし箭(や)モンベツの方より此処まで飛来りてここに留りし故に号ると」書いた。たぶん ai-oshma-p(矢・入った・処)と解したのであろうが,説話か。
これは確かに地名説話っぽいですね。ちなみに手元の「東蝦夷日誌」には次のようにありました。
(三十一丁三十一間)アヨボシユマ(小川、小休所)名義、判官様〔源義経〕が昔射給ひし箭留りしが故に琥くと。
何かびみょうに違いがあるのですが、どういうことでしょうか。同じく松浦武四郎さんの薄い本(按東扈従)を読み解いていくと、ちょっとおもしろいことがわかりました。「按東扈従」に採録された地名を順に並べると、次のようになります。
ヲイカマイ(生花苗)
ヲンネナイ
ホリカヤニ(ホロカヤントウ)
トウブイ(当縁)
セキ
アイホシユマ
ホンアイホシユマ
ヘルフネナイ(歴舟)
モンベツ(紋別)
アイホシマム
トヨイ(豊似)
そして、「東蝦夷日誌」をよーく読むと、p.270 に「アエブシユマム」が記されていて、p.273 に「アヨボシユマ」が記されています。山田さんが引用したのは「アエブシユマム」のほうだったんですね。
実際の地形に即して考えてみると、現在の「アイボシマ川」は当縁川と歴舟川の間を流れています。つまり、薄い本(やめなさい)に言う「アイホシマム」ではなく、「アイホシユマ」のほうが現在の「アイボシマ川」である、と言えそうです。
永田地名解に言う「アエポシマㇷ゚」は、現在の「小紋別川」だった可能性があるかもしれません。小紋別川の河口はとても小さなフィヨルド状の地形になっているようなのですが、沿岸流で運ばれた砂が堆積して河口部が塞がりやすいように見えるのですね。砂で塞がれた河口に魚が飛び込んできた可能性が考えられそうなのです。
一方で、現在の「アイボシマ川」の河口は浜大樹の集落になっていて、漁港などが整備されているので往古の地形を知る術がありません。ただ、浜大樹の南側も砂浜になっているようなので、もしかしたら似たような条件の地形だったのかもしれません。源義経の弓占説は、やはり地名説話の域を出ないような気がします。
地名解ですが、永田地名解の {a=e-p}-osma-p で「{私たち・食べる・もの}・入る・ところ」と考えて良いのでは、と思います。
歴舟川(れきふね──)
日高山脈に源を発し、太平洋に注ぐ川の名前です。そこそこ長い川なのですが、水源から河口まで全て大樹町に属しています。
この「歴舟川」は、割と有名な「読みが変わった地名」です。実は、もともと「歴舟」で「へるふね」と読ませていたのが、やはり今ひとつ難読だったからか「れきふね」に読みが変わってしまったという歴史を持ちます。あ、やっぱ「歴」は「れき」と読むほうが多いことが図らずも出てしまいましたね(わざとらしい)。
この「歴舟川」ですが、永田地名解には次のようにあります。
Pe rupne-i ペ ルㇷ゚ネイ 大水川 直譯水大ナル處、此川南風吹クトキ晴雨ヲ論セズ遽ニ大水流下ス故ニ和人「ヒカタトマリ」ト云フ「ヒカタ」ハ南風ナリ○歴舟村ト稱ス
また、「東蝦夷日誌」には次のようにあります。
ベルプネナイ〔歴舟川〕(川原幅凡十丁、急流、流時々變ず、船渡し)詰てベロツナイと云。名義、ベルツウナイにて、ベは水、ルツウは押て下ると云こと。此川筋、嵐また西南の風吹時は急に出水する故、此名有と(地名解)。
なんとなくですが、大枠では合ってそうな感じですよね。ちなみに薄い本こと「按東扈従」には次のようにあります。
ホンアイホシュマ
ヘルフネナイ
地名ヘルフネは、へは風のこと、ルフネは多きと云ふ事。南風多き時水増と云訳なり。川幅水出る、凡十丁にも成る。平日渇水の時は小川幾瀬にも成、小石荒川にして船渡し〈川番土人シマタフカル〉守有。共渡し場は処々へかわる事なり。此川筋に昔しは十軒も有し由なるが今はなし。上りて槲柏多し。
「ヘは風のこと」という謎な解が出てきました。pikata の話があったので、混乱したのかもしれませんね。
色々と引用してきましたが、地名解自体はそれほど謎めいたものでも無さそうに感じます。pe-rupne-i で「水・大きくある・ところ」と考えて良いでしょう。東蝦夷日誌の解が少々ハズレを引いた感がありますが、「ベロツナイ」は pe-ru-ot-nay あたりでしょうか。これだと「水・路・群在する・川」となりますね。
www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International