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アイヌ語地名の傾向と対策 (352) 「万世・アクマップ川・古岸」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

万世(ばんせい)

maw-ni-us-oro
ハマナスの実・木・ある・ところ
(典拠あり、類型あり)

肉の美味しい季節になりました(年中いつでも美味しいですが)。さて新冠町の「万世」ですが、新冠川を河口から 7~8 km ほど遡ったところの南東岸(アイヌの流儀では「右の方」)の地名です。

平取町の荷負から静内に向かう道道 71 号が途中で万世を通っているのですが、新冠から静内に向かう途中で道路がヘアピン状になっているところがあります。ヘアピンカーブの間を流れている川の名前が「万揃 2 号川」で、この万揃 2 号川が「万揃 5 号川」と合流して、最終的には「万揃川」という名前で新冠川に注いでいます。

戊午日誌「東部毘保久誌」には次のようにありました。

また少し上り
     マウニシヨロ
右の方小川有、平地にして木立原也。其名義は不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.154 より引用)

残念ながら「其名義は不解也」とありますが、続いて永田地名解に行ってみましょうか。

Mauni ush oro kotan  マウニ ウㇱュ オロ コタン  玫瑰多キ中ニ在ル村 ○萬揃村

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」でも、永田説を引用した上で次のように続けていました。

マウニウシオロ(はまなすの沢山あるところ)を早く言うとマウソロと聞える。


これについては少々首肯するのにためらってしまいますが……(汗)

近年まではまなすがあったという。
更科源蔵更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.82 より引用)

ふむふむ。これが正しいとしたら、間違い無さそうな感じですね。

さて、「マウニウシオロ」を早く言うと「マウソロ」と聞こえる、という説については、山田秀三さんは次のように考えていたようです。

まあ一つの案を書けば,マウニシヨロの「ニ」は略されても呼ばれたろう。マウ・ウシ(はまなす・多い・処)という場所の名ができていたとすれば,それにオロ(の中,の処)がついてマウウシオロ→マウショロと略されて万揃になったとでも考えられないだろうか。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.358 より引用)

「一つの案」とありますが、なかなか説得力のある解のように思えます。ということで、新冠町万世の元となった地名・川名は maw-ni-us-oro で「ハマナスの実・木・ある・ところ」だったと考えられそうですね。

アクマップ川

a-ku-oma-p??
我ら・飲む・そこに入る・ところ
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)

新冠町万世から更に遡ったところで新冠川に合流する支流の名前です。

「角川──」(略──)では、次のような解が紹介されていました。

地名は,アイヌ語のアクマップ(きれいな水の流れている川の小高い原っぱの意) から,明るく和やかな意をこめて,同25年開校の小学校名,および集落名としたことによる(新冠町史明和開基開校三十周年記念誌あくまっぷ)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1501 より引用)

むむむ……。どこをどう解釈したら「きれいな水の流れている川の小高い原っぱの意」となるのでしょうか。南阿蘇水の生まれる里白水高原駅でしょうか(関係ないです)。

続けましょう。東西蝦夷山川地理取調図には「アクマウ」という記録があります。また、戊午日誌「東部毘保久誌」にも次のようにありました。

こへて
     アクマウ(プ)
右の方小川、相応にひろし。其名義は未だしれずと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.156 より引用)

ちなみに、頭注には次のようにあります。

明 和
ア  我ら
ク  飲みに
オマ 入る
プ  所
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.156 より引用)

ふむふむなるほど。a-ku-oma-p で「我ら・飲む・そこに入る・ところ」と考えられそうですね。清冽な飲水が得られる場所だったということなのでしょうね。そこから「きれいな水の生まれる里白水高原」……何か違うな。なんかそんな形(どんな形だ)として伝わったということでしょうか。

古岸(ふるぎし)

hur-kes-i
丘・末端・ところ
(典拠あり、類型あり)

新冠川にかけられた「明和橋」を渡ると、対岸の「古岸」です。地形図で見た感じだと、このあたりは河岸段丘状の地形のようです。

今回も戊午日誌「東部毘保久誌」に記載がありました。

しばし上りて
    フルケシ
右の方小川有。此処むかしは此村よりシヒチヤリえ山越する坂の端なるが故に名有。フルとは坂のこと、ケシとは端と云義也。昔しは此処に人家有りし由なるが、今はなし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.158 より引用)

はっはーなるほど。どうやら hur-kes-i で「丘・末端・ところ」と考えて良さそうな感じです。ただ、現在の「古岸」は新冠川西岸(アイヌの流儀では「左の方」)を指す地名のようですが、戊午日誌には「右の方小川」とあります。

これはどうしたことか……と思ったのですが、「戊午日誌」をよーく読んでみると、「フルケシ」は現在のアクマップ川上流部(詳細不明)のあたりから、新冠川西岸部の「古岸 3 号川」(?)のあたりまでの広い範囲を指す地名だったようです。

戊午日誌の「シヒチヤリえ山越する坂の端」という説明から考えると、本来の「フルケシ」は、現在のアクマップ川の上流部、あるいは中流部あたりを指す地名だったのかもしれません。アクマップ川の中流部も段丘状の地形になっているところがあるので、これを指して「丘の端」と呼んだのかなぁ……と想像していたりします。

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