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春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (86) 「車掌車『ヨ4642』と除雪車『キ276』」

別海町鉄道記念公園」の話題を続けます。昨日の記事で紹介した「D51-27」の後位には……

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

車掌車「ヨ4642」が連結されていました。国鉄時代は貨物列車の最後尾に必ず車掌車(あるいは緩急車)が連結されていましたが、国鉄末期の「合理化」で車掌車(緩急車)が省略されるようになり、代わりに最後尾の貨車に大きな反射板が取り付けられるようになりました。

この「合理化」により行き場を失った車掌車の一部が、車輪を取り外した上で駅舎として再利用されているのは皆さんも良くご存知のとおりです。駅舎はカラフルなものが多いですが、本来はこんな風に真っ黒だったんですよね。

「キ276」除雪車

車掌車の後ろには「キ276」除雪車が連結されています。この除雪車は自走する動力を持たない、貨車相当の構造です。

除雪車は通常、編成の先頭に立つものだと思うのすが、回送を考慮してか、ちゃんと前部にも連結器があるんですね。

車掌車「ヨ4642」と蒸機「D51-27」のツーショットです。炭水車の台枠が赤く塗られているのがいいアクセントになっていますね。

除雪車「キ276」の後ろには踏切の警報機が設置されていて、第三種踏切のようになっています。

「キ276」の反対側に回りました(順光バンザイ!)。「キ276」は「キ100形貨車」と呼ばれる形式で、単線用の除雪車だったとのこと。車体の中央部にも除雪用の板がついていて、この板を開いたり閉じたりして除雪幅を調整していた……ということなのでしょう。

丸ゴシック?

逆アングルから車掌車を眺めます。窓から白い「涙の跡」のようなものが流れていますが、これは窓枠の白い塗料?が流れたものでしょうか。あと、全体的に書体が「丸ゴシック」っぽい気がするのですが……?

「ヨ4642」の車体の端には「東急車輌 昭和29年」の文字が。「自重10.2t」の文字が妙に整っていて、丸ゴシックに見えるんですよね……。国鉄時代の文字は、なんかこう、もうちょっとショボい感じ(どんなだ)の字だった印象があるのですが……。

「標準型」D51

D51-27」の後部に戻ってきました。D51 には構造を簡略化した「戦時型」と呼ばれるグループがあり、「戦時型」の炭水車は台枠を省略した「船底型」と呼ばれる構造だったようですが、この炭水車は台枠のある「標準型」相当のように見えます(赤く塗装された部分が台枠)。

D51-27」の運転室です。こちら側(進行方向右側)は左側と比べて圧倒的に塗装の痛みが少ないのですが、何故なんでしょう……?

台枠や動輪の内側を赤く塗るのは「サハリン時代」のカラーリングだった可能性もあるのですが、そう言われてみるとこれはこれで格好良く見えてくるのですから人間ひとの感性なんていい加減なものですね。

ボイラーと比べて動輪や連結棒の塗装がそれほど傷んでいないように見えるのは、雨が比較的当たらないからなのか、それとも動輪・連結棒だけ塗装の手入れが多いのか……? まぁ前者だと思いますが、後者だったらそれはそれで面白いなぁ、と。

ボイラー上部のドーム(砂箱と蒸気溜)の形も「戦時型」のようなカマボコ形ではなく、「標準型」相当の丸みを帯びた、一般的な形状のものです。国内向けには「戦時型」の生産を進める一方で、台湾向けの車輌のドームは見栄を張ったのか「標準型」相当のままだったという話もあり、どうやらカマボコ形のドームは *格好悪い* という認識があったようです。

あ、動輪だけではなく従輪先輪もちゃんとペイントされていたんですね(動輪より前にある車輪は「先輪」と言うのか……)。

機関車は製造できるけど買う側に金が無いので

ということで、「サハリン向け D51」は「国鉄 D51蒸気機関車」の「標準型」相当の設計だった、と見て良さそうでしょうか(寒冷地向けに運転室が密閉構造になっていますが)。

国鉄向けの D51 の製造は 1945 年で終わっていて、サハリン向け D51 は 1949 年に製造されているのですが、当時は超ハイパーインフレで政府の財政が逼迫していて、ドッジ・ライン政策により予算の執行も次々に停止され、工場には製造途中の機関車が放置される……という状態でした。

「買い手」(=国)の財政が逼迫する一方で工場の設備は有休状態……ならば、「じゃあ機関車を作って海外に売ればいいじゃない」という考えが出てきても不思議はありません。ただ「日本サイズの蒸気機関車」が海外にホイホイ売れる筈も無く、台湾も「国共内戦」でそれどころでは無く、唯一可能性があったのがサハリンだった……ということなのでしょう(韓国の鉄道は日本とは規格が異なる筈なので)。

「サハリン向け D51」の輸出価格が適正だったのか、ぼったくっていたのか、それとも激安プライスだったのかは(私には)良くわかりません。ただこの輸出に「仲良くしてね」というメッセージが込められていたとしても不思議ではないでしょう。

「東西冷戦」を知る世代には俄に信じがたい話ですが、1949 年の時点では米ソ関係はそこまで悪化していなかった、ということなのだと思います。「ココム規制」で知られる「対共産圏輸出統制委員会」の活動開始は翌年の 1950 年です。

要は「サハリン向け D51」には「財政危機からの脱却」や「雇用の保護」と言った *救済的な性格* があり、おまけとして「隣国との国交正常化に向けた心付け」としての側面があった *かもしれない* と考えたくなります。いずれにせよ「単なる輸出」と捉えるのはあまりに雑な見方なのでは……と思えるのですね。

それはそうと

ところで、「D51-27」が置かれている線路なんですが、何故かこんなところにポイントがあるんですよね。なんでこんな中途半端な所に……?

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