今日からは、1878/6/7 の「第四信」(本来は「第六信」)を見ていきましょう。
ヘボン博士
「第三信」では、新橋から麹町の英国大使館に行って……という話でしたが、また横浜の話になります。この間、イザベラはどこに滞在していたのかは(普及版の読者には)知るよしもないのですが、削除された本来の「第四信」「第五信」の小題を見る限りでは、どうやら東京に滞在していたように思われます。
私は横浜へ出かけて、山の手のヘボン博士夫妻を訪ねて一週間滞在した。香港のバードン監督夫妻も客となっていたので、たいそう楽しかった。
「ヘボン」と言えば「ヘボン式ローマ字」ですが、この「ヘボン博士」はまさしく「ヘボン式──」の生みの親である James Curtis Hepburn のことです。
ヘボンさんトリビア
ヘボンさんは 1815 年 3 月 13 日生まれと言いますから、あと 2 日で生誕 197 年となりますね。Wikipedia から、ヘボンさんの来歴をピックアップしてみましょう。
へぇー。
へぇーへぇー。
ここからはカットされた部分です
あ、ちなみにこの「ヘボン博士」のセンテンスですが、普及版「日本奥地紀行」では、先に引用した二つの文を除いてバッサリとカットされています。カットした理由は不明ですが、これはもしかしたら私人のことを詳らかに記すのをイザベラが好まなかったから、かもしれませんね。
ここからはカットされた部分です。
ヘボン(ヘップバーン)博士はおそらく最も古い外国人の住民で、当地に 19 年間住んでいます。
ちなみにこの時、ヘボンさんは御年 63 歳でした。まぁ、イザベラもこの時すでに 46 歳だったのですが……。
彼は医療伝道者として旧体制の奇奇怪怪の日々に来日して、日本人が資格のある医療人員を有する病院や施療院を開く前に、彼は 1 年に 7000 人もの患者を診察したのです。彼らは彼の診察を受けに非常に遠いところからやってきていました。
はい。実はヘボンさんの本業はお医者さんでした。「旧体制の奇奇怪怪の日々」というのは、江戸幕府の治世のことを指しているのでしょうね。確かにいろんな意味で奇奇怪怪だったことでしょう。
彼はキリスト教に耳を傾けさせることを確実にするために治療の実践がいま日本で必要とされているいうふうには考えていないことと、また、健康上の理由で、医療から引退しています。
直前のセンテンスで「医療伝道者」という表現が使われていた通り、ヘボンさんはお医者さんであると同時に、宣教師として伝道活動に従事していたようです。他ならぬイザベラも牧師(イングランド国教会)の娘であり、開国直後の混乱期の日本に早くからやってきていたのは、布教活動としての側面も少なからずあったようです。
普及版「日本奥地紀行」では、かなり多くの部分が削られているのですが、削られた部分の中には伝道関連の部分も少なくないようにも感じられます。紀行文学には宗教色は不要、という考えでもあったのか、あるいは「奥地探検」と「伝道」を結びつけられることを好まなかったのかも知れませんね。
彼は多くの日本の問題に関して広い知己を持った人で、標準的な和英辞典は、彼の13年間にわたるほとんど独力の言語学上の仕事の最新の果実なのです。
「の」が多い……、あ、いやいや。
彼はいま、新約聖書の日本語訳を作っている 3 人の学者の一人であり、聖職者ではない平信徒ですが、横浜の現地人の会衆の面倒をみています。
「聖職者ではない平信徒ですが」というのは何とも面白いですね。布教活動そのものは別にふつーの信徒でもできる、ということなのだと思います。進んだ文明の一端を授けに来てくれるのはありがたい話なのですが、併せて宗教を押しつけられるのは、個人的にはちと勘弁被りたいところですが……。
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