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「日本奥地紀行」を読む (16) 東京 (1878/5/24)

引き続き、今週も 1878/5/24 付けの「第三信」を見ていきます。もうちょいとだけおつきあいくださいませ。

英国人の家庭(続)

長かった「第三信」も、ようやく終わりが見えてきました。最後に出てきたのはあの人!です。

 公使館の日本書記官は、アーネスト・サトウ氏である。この人の学識に関する評判は、特に歴史部門において、日本における最高権威であると日本人自身も言っておるほどである(*)。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.41 より引用)

アーネスト・サトウは、明治期の日本にもっとも知悉していたと言われる外国人の一人です。外国人です。ええ、外国人です(しつこい)。いや、「サトウ」という苗字からは、いかにも「日系人」のような印象を受けるのですが、

アーネスト・メイソン・サトウSir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。
Wikipedia 日本語版「アーネスト・サトウ」より引用)

"Satow" とあるように、れっきとしたヨーロッパの人です。

「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、日本の姓とは関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗った。
Wikipedia 日本語版「アーネスト・サトウ」より引用)

「薩道」というのはピンと来ませんが、「佐藤」なら文句なし!ですね。ドナルド・キーンのような大変なことにはなりません。

本人も自らの姓が日本人になじみやすく、親しみを得られやすい呼び方だったことが、日本人との交流に大きなメリットになったと言っていたという。
Wikipedia 日本語版「アーネスト・サトウ」より引用)

まぁ、世の中何が幸いするかわからない、ということですね。

日本における最高権威?

本題に戻りますが、「特に歴史部門においては、日本における最高権威であると日本人自身も言っておるほどである」というのがちょっと腑に落ちない感じがします。これだとまるで、日本の歴史について日本人以上に知悉している(あ、「知悉する」は今日二回目だ)ようにも思えてしまいますが、

* 原注──私が日本に滞在して何か月か後に、教育ある日本人に、彼らの歴史、宗教、古代慣習などについて質問をすると、次のような返事をして私の質問をはぐらかされることが多かった。「サトウ氏におたずねになるがよいでしょう。あの方なら、あなたに教えてくれますよ」。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.42 より引用)

というオチでして……。イザベラが達者な日本語を話していたとは思えないので、きっと通訳を介して会話していたか、あるいは質問されたほうがたどたどしい英語で答えていたのだと思います。……いくら「教育ある日本人」でも、「サトウさんに聞いとくれ」と丸投げしたくなる気持ちも理解できますね。

幻の「第四信」「第五信」

続く「第四信」と「第五信」は、普及版では完全にカットされています。ちなみに第四信のセンテンスは「けだるい暑さ」「東京の街路風景」「外国人居留地」「キリスト教地区」「俗悪な建築」「吹上御苑」「服装とふるまい」「ぎこちない女性」で、第五信は「狭いわだち」「話題」「つがいのポニー」「芝の寺院」「『アフタヌーンティー』」「英国教会」だったようです。

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