やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
トコツナイ川
沼・跡・川
天塩町中心部から少し南にいったところを流れている川の名前です。to-kot-nay であれば「沼・窪んだ・川」となりますね。
かつて、このあたりには国鉄羽幌線の「干拓」という仮乗降場がありました。いまでも地形図には「干拓」という文字があります。あらためて地形を確かめてみると、確かにこのあたりは海抜 5 m を下回る低地で、それは嘗て随分な湿地だったことを想像させます。
また、トコツナイ川の上流部はかなり深い谷になっているように見受けられます。ということなので、「沼に向かう谷の川」といったニュアンスだったのかもしれませんね。
2021/6 追記
知里さんの「地名アイヌ語小辞典」に「沼・跡・川」である、と明記されていました(p. 77)。言われてみれば確かにそう読めましたね……。
更岸(さらきし)
葭原・端
sarki-us-i?
葭・多くある・ところ
地形図では「干拓」を取り囲むようにその存在が見て取れる地名です。国鉄羽幌線にも同名の駅がありました。
まずは山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。
更岸 さらきし
天塩町内の地名,川名。天塩町市街の南の処の名で,前のころはサラケシ・トーと呼ばれた大沼があったが,今は干拓された。
あ、やはりトコツナイ川が流れる沼は干拓されたのですね。
松浦氏再航蝦夷日誌は「サルケシ。下りて沼の傍に出る。此辺テシホ(注:天塩川)の元川にある由。芦葦老生り」と書いた。
ふーむ、なるほど。天塩川の河口部は現在でも妙な形をしていますが、昔はサロマ湖のような感じだったのかもしれませんね。「サルケシ」というカナ表記からは sar-kes (葭原・端)という地名を想像させます。
明治の地図ではこの沼の下は川になって天塩川の川口に出ていたが,今は沼のあった辺から海に向かって直線の川が作られ,天塩川とは別になっている。
ここで山田さんが言及している「直線の川」が、前述の「トコツナイ川」ですね。
更岸,つまりサラケシはサㇽ・ケㇱ(sar-kesh 葭原の・末)であったか,あるいはsarki-ush-i(葭・群生する・処)のような名だったのであろう。
ということなのですが、更科源蔵さんは
サラキシはサルキ・ウㇱで葦のたくさんあるところの意味。
と、あっさりと sarki-us-i(葭・多くある・ところ)だと断言されています。個人的にはどっちも可能性があるかなぁ、と思っているのですが……。
キビタナイ
葦・海岸の砂丘・長い・川
遠別町北部を流れる川の名前ですが、もともとは「キビタナイ」という地名もあったのだそうです(現在の遠別町北里の一部)。
この地名も、どうにも意味がつかめなかったのですが、「角川──」(略──)には次のようにあります。
きひとたんない キヒトタンナイ <遠別町>
〔近世〕江戸期から見える地名。西蝦夷地テシホ場所のうち。キビタナイともいう。
なるほどね。そもそも「キビタナイ」から考えたのが間違いだったようです。
地名はアイヌ語のキキピルタンナイ(葦原の砂丘を流れる長い小川の意)による
ほほう。これはまた意外な……。まだ続きがありましたね。
ものと推定。
うぉっ(汗)。うん、でも ki-kipir-tanne-nay で「葦・海岸の砂丘・長い・川」という解釈は良さそうな感じもしますね。最初は kipir を「崖」だと思っていて「うーん」と思っていたのですが、「海岸の砂丘」あるいは「海岸の段丘」という解釈もあったのだとか。推定かもしれませんが、それほど大きく間違っていないような気もします。
ただ、ここは相当表記が揺れているようで、たとえば……
文化 3 年の「遠山・村垣西蝦夷日記」にはキヒリレタンナイと見える。同 4 年の田草川伝次郎「西蝦夷地日記」では,「キビトクナイ,キブツタナイ」とも云,ウヱンベツより弐り半程,漁小家・蔵壱軒」と見える。
とあります。「キヒリレタンナイ」だと kipir-retan-nay で、「海岸の砂丘・白い・川」となりそうですね(retan は retar の音韻変化による)。「キビトクナイ」は kipir-tok-nay でしょうか。「キブツタナイ」は……ちょいとお手上げです。
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