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中標津の軍用未成線?

中標津の軍用未成線

道東の根釧台地中標津(なかしべつ)という街があります。根室中標津空港があり、千歳および羽田との間に定期便が就航しています。

この根室中標津空港、もともとは旧日本海軍の「標津第一航空基地」でした。道北から道東にかけては戦中に急ごしらえで建設された飛行場が多いのですが、ここもその一つです。道東には他にも計根別や矢臼別など多くの飛行場が建設されたのですが、これは対ソ戦を想定していたほか、千島方面からの米軍来襲の可能性も考慮していたのではないかなぁと思います。

現在の中標津には空港と国道があるのみで鉄道線は存在しないのですが、かつては「殖民軌道」や国鉄標津線などが走っていました。「殖民軌道」というのは耳慣れない言葉ですが、道路代わりに使用された軽便鉄道のようなもの、と解釈しても当たらずも遠からずかなぁ、と思います。

殖民軌道(しょくみんきどう)とはかつて日本の北海道で見られた軌道の一形態である。1942年以降は簡易軌道(かんいきどう)と改称された。
現在では広義の軽便鉄道の範疇で捉えられることが多いが、未開地での道路の代替手段という性質を持ち、根拠法令を異にしていたという歴史的経緯がある。この点で一般の鉄道・軌道とは異質なものであった。
Wikipedia 日本語版「殖民軌道」より引用)

一枚の航空写真から

さて、ここに一枚の航空写真があります。1952 年に米軍によって撮影されたものです(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=172078)。諸元は次の通りです。

この写真をトリミングして、キャプションをつけてみました。海軍標津第一飛行場と中標津市街を一望できる写真です。

(この背景地図等データは、国土地理院地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)

殖民軌道根室線

さて、海軍標津第一飛行場が建設されるよりも前の 1925 年に殖民軌道根室線厚床から中標津まで開通しました。翌年には中標津から三本木まで延伸されたのですが、このようなルートを通っていました(後に建設される滑走路のすぐ近くを通っていることがわかります)。

(この背景地図等データは、国土地理院地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)

国鉄標津線

その後、1934 年から 1937 年にかけて国鉄標津線が建設されました。国鉄標津線と競合する殖民軌道根室線厚床中標津間は廃止され、残った区間国鉄中標津駅に向かうように路線変更されました。

(この背景地図等データは、国土地理院地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)

海軍専用線

やがて戦局が風雲急を告げる中、中標津にも海軍の飛行場が建設されることになりました。飛行場のすぐ近くを通っていた殖民軌道根室線は廃止され、代わって標津から建設資材などを運搬するために海軍の専用線が建設されました。

(この背景地図等データは、国土地理院地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)

海軍標津第一飛行場は 1944 年に完成しましたが、ほとんど活躍の場を与えられないまま敗戦を迎え、そのまま放置されてしまいます。目的が失われた海軍の専用線は程なく撤去された……とされています。

ところが、航空写真を見ていて、妙なことに気がつきました。それは……(次回に続く)。

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