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北海道のアイヌ語地名 (863) 「オンコロマナイ川・オイクショマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オンコロマナイ川

enkor-oma-nay??
鼻・そこに入る・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)

宗谷岬の西、「珊内さんない」と「宗谷」の間に「清浜」という地区がありますが、そこを流れる川の名前です。

ややこしい話ですが、「宗谷」と「宗谷岬」は 7 km ほど離れています。本来の so-ya は現在の「珊内さんない」のあたりで、現在「宗谷」(宗谷岬では無いほう)と呼ばれる一帯は wen-tomari と呼ばれていました。会所を珊内から宗谷に移転する際に so-ya という地名も引っ越してきたようですが、その後 so-ya が岬の名前として復活した……ということみたいです。

「オショロコマの川」説

「東西蝦夷山川地理取調図」には、「ソウヤ」から数えて 6 つ *北* に「ヲンコロマナイ」という川が描かれています(この「ソウヤ」は「宗谷岬」ではなく、現在の「宗谷」のことです)。

「再航蝦夷日誌」には次のように記されていました。

     ヲシヨロコマナイ
小川有。橋有。水浅し。此処も平山ニよりかかり樹木なし。牛蒡ごぼう、虎杖、鬯多く生たり。又海辺ニは海鼠多し。平磯にし而汐干る時は歩(行脱)に而皆海鼠、海草等を取りニ出る也。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 下巻吉川弘文館 p.128 より引用)

「ヲシヨロコマ」は「オショロコマ」のことなんでしょうか……? だとすれば osorkoma-nay で「オショロコマ・川」ということになりますが、知里さんの流儀で考えれば osorkomanay の間の何かが省略された形、ということになりますね。

「ヲンコロマナイ」という記録

一方で、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

    字マウシエンルン
     コタンバ
     ヒラツウ
     ヒリカタイ
     トマリホントナイ
     ヲ ハ ル
     ヲンコロマナイ
小流、幅五六間、歩行わたり。当時は夷家三軒(カワカント、トツフクシヤ、タヒランケ人別合十八人)有。往昔は拾余軒有しと聞り。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.308 より引用)

「東西蝦夷山川地理取調図」では「トマリヲホント」の隣が「ヲンコロマナイ」だったので、間に「ヲハル」が増えたという違いがありますが、「東西蝦夷──」も「竹四郎廻浦日記」も、どちらも「ヲンコロマナイ」で統一されています。

「オンコ」意訳説

永田地名解には、次のように記されていました。

Tomari ohonto    トマリ オホント     奥深キ澗
Raramani oma nai   ララマニ オマ ナイ   水松アル澤
Kinatunke oma nai  キナト゚ンケ オマ ナイ  シヤク草アル澤 此處ノ「シヤク」草ハ味美ナリト云フ

「東西蝦夷山川地理取調図」の「ヲンコロマナイ」は「トマリヲホント」と「キナトンフヲマナイ」の間に描かれていました。ですので永田方正は「オンコロマナイ川」のことを「ララマニオマナイ」だと考えた……ということになるのですが、「イチイ」のことを北海道の方言で「オンコ」と言い、アイヌ語では rarma-ni と呼ぶので……なるほど。「オンコロマナイ」の「オンコ」が北海道方言の「オンコ」ではないかと考えたのですね。

「鼻のところに入る川」説

「ヲンコロマナイ」と「ララマニオマナイ」の違いについては「オンコ意訳説」であっさりと解決したのですが、松浦武四郎の記録は「再航蝦夷日誌」を除いて「ヲンコロマナイ」で統一されています。

「再航蝦夷日誌」の「ヲシヨロコマナイ」という解をどう考えるべきかという話になるのですが、他の記録が軒並み「ヲンコロマナイ」であることを考えると、やはり誤記を疑いたくなります。

永田地名解の「オンコ意訳説」も面白い説ではあるのですが、それだったら素直に {rarma-ni}-oma-nay で「{オンコ}・そこにある・川」と呼ぶこともできるのでは……と考えたくなります。

「オンコロマナイ川」の河口近くを見ると、東側の宗谷丘陵が鼻のようにせり出していて、流路が大回りを余儀なくされていることがわかります。この地形から enkor-oma-nay で「鼻・そこに入る・川」と考えられないか……と思うのですが……。

オイクショマナイ川

u-e-kus-oma-nay??
互いに・頭(水源)・向こう側・そこにある・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)

日本最北のコンビニエンスストアである「セイコーマートみいそ店」のある富磯地区の南側、富磯小学校の少し南のあたりを流れる川の名前です。

明治時代の地形図を見ると、現在の「富磯川」の河口あたりに「リヤコン」と描かれていました。大正時代に測図された陸軍図を見ると、「利矢古丹」と描かれていて、「富磯」と改名される前は「利矢古丹」と呼ばれていたようです。riya-kotan で「越冬・集落」だったのでしょうね。

富磯川の南の「オイクショマナイ川」の河口あたりは、地名もそのまま「オイクショマナイ」だったようです。「オイクショマナイ川」と「富磯川」の間(小学校の北側)にも無名の川が流れていますが、この川は明治時代の地形図では「ポ?オイケシユマナイ」となっていました。

「東西蝦夷山川地理取調図」では「リヤコタン」の南隣に「モトマリ」とあり、その南隣が「ヌソヲイ」となっています。ただ「竹四郎廻浦日記」には、その間の川名も記録されていました。

     イキム子ルウクシ  小川
     ヌソヲヱ 小川
     ヲヱクシナイ 小川
     モイクシマナイ 小川
     モトマリ 〃
     リヤコタン
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.533 より引用)

「竹四郎廻浦日記」では「イキム子ルウクシ」の南隣が「マシホヽ」となっていますが、これは現在の「増幌川」のことだと考えて良さそうでしょうか。「イキム子ルウクシ」と「ヌソヲヱ」も「小川」となっていますが、これは何かの間違いかもしれません(「再航蝦夷日誌」を見た限りでは、川とは明記されていません)。

「河口で伏流する川」説

永田地名解には次のように記されていました。

O ikushoma nai   オ イクㇱョマ ナイ   川尻ノ水彼方ニ行ク川 沙中ヲ潜流シテ彼方ニ流ルル川ナリ
Pon oikushoma nai ポン ヲイクㇱョマ ナイ 川尻ノ水彼方ニ行ク小川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解国書刊行会 p.427 より引用)

うーん。o-i-kus-oma-nay で「河口・それの・向こう岸・そこにある・川」で、それを「河口で砂の下を潜る川」としたのでしょうけど……うーん。

「同じ水源で川ふたつ」という情報

「午手控」には次のように記されていました。

ヲエクシマナイ
 (本名)ヱクシマナイ。此川源一ツにして川口二ツに成る。モヱクシマナイ、ヲヱクシマナイと云より号し也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.411 より引用)

更に混迷の度合いを広げる情報が出てきました。「ヲクシマナイ」と「モクシマナイ」の水源が同一であると言うのですが、「モイクシマナイ」が「富磯川」と「オイクショマナイ川」の間の小流だと考えると、「水源が同じ」とは言えないと思うのですね。

「水源が向こう側にある川」説?

「イクショマナイ」を e-kus-oma-nay で「頭(水源)・向こう側・そこにある・川」と考えると、「水源が同一」という「午手控」の情報が活きてくるのですが、ただこれだと o- をどう解釈したものか、という問題が残ります。

仮に o- ではなく u- だったとすれば、u-e-kus-oma-nay で「互いに・頭(水源)・向こう側・そこにある・川」と解釈できたりしないでしょうか。

「水源が同一」とは言えないという問題は残りますが、「モイクシマナイ」を遡ると「オイクショマナイ川」の北支流と「富磯川」の南支流の間の鞍部のすぐ近くに出ることができます。

川名を読み解く際には「なぜ地元のアイヌはこのような名前を残したのか」を考えないといけないのですが、「『モイクシマナイ』を遡ったところで『オイクショマナイ川』の流域にしか出られないから気をつけるように」という戒めなのかなぁ、と考えた次第です。

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