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北海道のアイヌ語地名 (874) 「勇知・夕来・オネトマナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

勇知(ゆうち)

i-ot-i
アレ・多くいる・ところ
(典拠あり、類型あり)

稚内市南西部を流れる川の名前で、JR 宗谷本線に同名の駅もあります。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  勇 知(ゆうち)
所在地 稚内市
開 駅 大正 13 年 6 月 25 日
起 源 アイヌ語の「イオチ」(ヘビの多い所)の転かしたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.182 より引用)

ふむふむ。ちなみに欄外にはこんな情報も記されていました。

☆この付近はジャガイモの産地で、「勇知イモ」として知られており、味もよい。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.182 より引用)

他の駅では「兜沼公園」や「抜海原生花園」など近隣の名所の情報などが並ぶ中、ここではジャガイモの情報で、しかも「味もよい」とのこと。

閑話休題。「勇知」は i-ot-i で「アレ・多くいる・ところ」ではないかとのことですが、「東西蝦夷山川地理取調図」では河口を「ユウフ」と描いていて、中流部に「フーチ」とありました。「再航蝦夷日誌」では「イウチ」とあり、「竹四郎廻浦日記」では「ユーツ」とあります。どれも似たようなものながら、微妙に違っているのが面白いですね。

「東西蝦夷──」の「ユウフ」は i-o-put で「アレ・多くいる・河口」だったのかもしれません。

永田地名解には次のように記されていました。

Yūchi,==Iochi  ユーチ  蛇多キ處 十勝国トㇱュペッ」川筋ニ「イオナ」アリ此ト同義

これも i-ot-i で「アレ・多くいる・ところ」説ですね。i は言挙げが憚られる際に使用される指示代名詞で、時と場合によって具体的な対象物が異なりますが、ここでは「蛇」を指しているようです。

「──駅名の起源」以降は永田地名解を踏襲しているようですが、「午手控」には次のように記されていました。

イウチ
 ユツクチシのよし。鹿鳴しと云儀也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.412 より引用)

む……。yuk-chis で「鹿・泣く」と考えたということでしょうか。他では見たことの無い解ですし、さすがにこれは無いんじゃないかなぁ……と思いますが……。とりあえずこんな説?もあった、ということで。

夕来(ゆうくる)

yuk-ru
鹿・路
(典拠あり、類型あり)

稚内市南西部の地名です。地理院地図では「オネトマナイ川」の西側に「夕来」とあり、東側に「オネトマナイ」とあるように見えますが、本来の「夕来」は海沿いの地名だったようです(Google Map に「夕来展望所」とあるあたり)。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい地名が見当たりません。「ユウフ」の南に「トイタウシナイ」という川が描かれていますが、「ユウフ」(勇知川)の支流としても「トイタウシナイ」が描かれているため、どちらかの川の名前を誤った可能性もありそうです。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     ヲン子トマフ
     ユ ク ル
小川有。傍には休所有。昼飯所のよし(梁三間半、桁九間)、夷人壱人来り留守をする也。是も然し此度通行の為なりと。歩行追々よろしく成たり。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.521 より引用)

地理院地図では「夕来」が「オネトマナイ」の西にあるように見えますが、このあたりは湿地が多く、川らしきものは見当たりません。陸軍図の「ユークル」は現在 4.0 m の三角点のあるあたりに描かれているので、元々は今よりも浜勇知に近い一帯を指していたのかもしれません。

永田地名解には次のように記されていました。

Yuk rū  ユㇰ ルー  鹿路
(永田方正「北海道蝦夷語地名解国書刊行会 p.420 より引用)

薄々想像がついていた方もいらっしゃるかと思いますが、ご想像どおりだった可能性が高そうな感じでしょうか。「夕来」は yuk-ru で「鹿・路」だったと考えて良さそうな感じです。

松浦武四郎が「午手控」で勇知を「ユツクチシ」と記したのは、「夕来」の解に惑わされた可能性もあるかもしれませんね。「午手控」では「ユクル」も「鹿の」と記していました。

yuk-ru は道内のあちこちにあるかと思いますが、夕陽が日本海に沈む場所に「夕来」という字を当てたのは、なかなか気が利いているのでは……。

オネトマナイ

onne-to-oma-p?
老いた・沼・そこに入る・もの(川)
o-net-oma-p?
河口・漂木・そこにある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

稚内市南西部の地名で、同名の川が日本海に注いでいます(地理院地図では「オネトマナイ大沢川」が日本海に注いでいることになっていますが……)。

1980 年代の土地利用図には「オネトマナイ」という大字?と「大沢」「小沢」という小字が存在するように描かれていますが、地理院地図では「オネトマナイ」が小字扱いになっているように見えます。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲン子トチマフ」という川(と思われる)が描かれています。ただ南隣の「エキコマナイ」(ユクオマナイ?)のほうが大きな川として描かれていますが、明治時代の地形図では「ユクオマナイ」が稚内市豊富町の境界を流れる川として描かれていたので、川の規模を考えると「東西蝦夷──」の「ヲン子トマフ」と「エキコマナイ」の描かれ方には不審な点があります。

「漂木」説

「オネトマナイ川」(地理院地図では「オネトマナイ大沢川」)は、明治時代の地形図では「オ子トマナイ」と描かれていました。「再航蝦夷日誌」と「竹四郎廻浦日記」ではいずれも「ヲン子トマフ」と記録されています。

永田地名解には次のように記されていました。

Onetomap  オネトマㇷ゚  寄木アノ處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.420 より引用)※ 原文ママ

ふむふむ。o-net-oma-p で「河口・漂木・そこにある・もの(川)」ということですね。この解は道庁の「アイヌ語地名リスト」でも追認されていて、上原熊次郎の「蝦夷地名考幷里程記」の解を元にしたもののようです。

 ヲ子トマリ
     休所 ワッカシヤクナイ三里半程
 夷語ヲ子トマプなり。則、流木の在る所と譯す。扨、ヲ子トとはヲ子ツの略語にて流木の事。マプとはヲマプの略語にて有る又は入る等と申事。プとは所と申訓にて、此所流木の寄り集る故、此名ありと云ふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.77 より引用)

これは反駁のしようも無さそうな解に思えるのですが……。

「大沼」説

ところが「午手控」には次のように記されていました。

ヲン子トマフ
 上に沼一ツ有、其沼より落ると云儀也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.412 より引用)

むむ、これは……。「オネトマナイ川」を遡った先に沼があったかな……と思ったのですが、ありましたね、そこそこ大きそうな沼が……(但しこの沼がオネトマナイ川の水源とは言えるかどうかは微妙ですが)。

「午手控」の記した解は onne-to-oma-p で、「老いた・沼・そこに入る・もの(川)」と読めます。onne は「老いた」としましたが、あるいは「大きな」と考えたほうが良いかもしれません。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

永田方正氏は、これをオネトマプで「寄木アル処」と訳している。しかしこの上流には三角形の沼があり、海岸によったところに細長い沼がある。その他この付近の湿地にも多くの沼があるが、オネトマナイの出ている沼が一番大きいのでオンネト(歳老いた沼)と呼んで、その大沼にある(オマ)川(ナイ)と呼んだ地名と思う。

「思う」で締めているところに一抹の不安も覚えますが、まぁ更科さんなんで……(ぉぃ)。どちらの解にも蓋然性を感じてしまうのですが、明治時代の大縮尺の地形図にはこの川が「トマナイ」と描かれているんですよね。

o-net-oma-nay を「トマナイ」と省略するのは少々乱暴なやり方ですが、onne-to-oma-nay を「トマナイ」と省略するのは onne- を抜いただけなので比較的自然なやり方に思えます。

ということで

上原熊次郎の「漂木」説も「誤りである」とはとても断言できないのですが、「大沼」説のほうにやや傾きつつあります。「トマナイ」という省略形が結構なインパクトがあった、ということになりますね……。

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