やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
トリトエウス
根室市珸瑤瑁の北東側(漁港のあるあたり)は、1980 年代の土地利用図には「トリトエウス」と描かれていました。正式な地名は「根室市珸瑤瑁三丁目」のようですが、通称的に使われた地名……でしょうか?
「東西蝦夷山川地理取調図」には「トントウヘウシ」と描かれています。「初航蝦夷日誌」には「トレトウヱウシ」とあり、戊午日誌「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。
同じく野道を行ことしばし、其海面岸也。此処を
トリトエウシ
と云。此処の奥に赤楊多し。其より起るなり。トリトヱとは、土人小屋の樽木様成ものに遣ふ木也。是多きによつて号るなり。
早速ほぼ答えが出た感もありますが、永田地名解も見ておきましょうか。
Turi tuye ushi ト゚リ ト゚リエ ウシ 竿ヲ伐ル處
turi-tuye-us-i で「(舟の)竿・切る・いつもする・ところ」と見て良さそうです。釧路町の「鳥通」と全く同じ……ということになりそうですね。
迷舞(まようまい)
根室市歯舞(かつての歯舞村)の北東、道道 35 号「根室半島線」沿いにある四等三角点の名前です。「歯舞」ならぬ「
「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい地名が描かれておらず、「初航蝦夷日誌」や戊午日誌「東部能都之也布誌」にもそれらしい記述が見当たりません。
明治時代の地形図にもそれらしい地名は見当たりませんが、大正から昭和にかけて測図されたと思しき「陸軍図」には「マヨマイ」と描かれていました。この「マヨマイ」は 1980 年代の土地利用図にも描かれていました。
ということで、この「マヨマイ」とは……という話ですが、改めて明治時代の地形図を見てみると、「コ
この「コヨマイペツ」ですが、図に描かれた「コ」の字がどことなく「ユ」のようにも見えます。「ユ」に見えるということは「マ」に見える可能性もある……でしょうか?
「初航蝦夷日誌」には「コヨマヘベツ」と「ハボマエ」の間に、次のように記されていました。
しばし凡七丁ニ而
ワカヨセキ
マカヨシレトとも云り。コヨマヘより此処迄の間海岸惣而暗礁多きよし也。又前ニ少しの岩岬。
「少しの岩岬」とありますが、確かに三角点の南南東に岬状の地形があります。どうやらこの岬が「マカヨシレト」だった可能性がありそうです。
「マヨマイ」は「コヨマイ」を誤読した可能性がありそうな感じですが、あるいは「マカヨシレト」から makayo-oma-i で「フキノトウ・そこにある・ところ」だった可能性も出てきたでしょうか。ただ「カ」がそう簡単に落ちるようにも思えないという点と、別の理由(この後すぐ)もあるので、今日のところはとりあえず誤読由来だったんじゃないかな、ということで。
マッカヨウ岬
地理院地図を見ると、根室市歯舞の南(歯舞漁港の
明治時代の地形図を見ると、現在の「マッカヨウ岬」の位置に「フラリモイ崎」と描かれています。この岬は「岬」と言いながら根室半島からほぼ切り離されているのですが(事実上の「島」)、明治時代の地形図には「島」の北西に「ナヤコツ」とも描かれています。
「初航蝦夷日誌」には次のように記されていました。
又砂浜凡九丁斗も行而
ヲヤコチ
岩石岬有。小川。越而八、九丁
また戊午日誌「東部能都之也布誌」にも次のように記されていました。
其小川をこへて五六丁も過て、少し坂を上り野道を行。此岬を
ヲヤコツ
と云、岬の形像 島に成り、其上城櫓の台の如くにして突出す。ヲヤコツとは別の地面屋敷と云儀なり。
この「ヲヤコツ」には、次のような頭註が付されていました。
ヲ 尻が
ヤ 陸に
コツ(凹んで)ついている
付根が低く島のように見える半島
「島のように見える半島」とありますが、これは間違いなく現在「マッカヨウ岬」と呼ばれる岬のことですね……。どうやら本来は o-ya-kot(-i) で「尻・陸・くっついている」と呼ばれる場所だったものが、西隣の「フラリモイ」に由来する岬名に変わってしまい、何故か後に東にあった筈の「マカヨシレト」に由来する「マッカヨウ岬」になってしまった、と考えるしか無さそうな感じです。
「マカヨシレト」は makayo-{sir-etu} で「フキノトウ・{岬}」なんでしょうけど、「どうしてこうなった」感が……。
www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International