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「日本奥地紀行」を読む (158) 白沢(大館市) (1878/7/29(月))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十七信」(初版では「第三十二信」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

村にあるもの

大館から北に向かったものの、折からの長雨の影響もあり、イザベラは白沢で足止めを余儀なくされてしまいました。

 私は71軒の家のある小さな静かな村の通りを眺めながら楽しい夕べの時を過ごしてきました。同様の村は何千とありここもその一つです。村には戸長コチョーがいて、高札、寺や墓場があり、凋落しつつある崇拝の対象があり、祭りマツリ、社会政体、結婚や死、地域の利権、警官の査察、税の支払い、土地の争い、ちょっとしたうわさ話、迷信、蒙昧、──ここは小さな世界ですが、それでも大日本の一部なのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺中央公論事業出版 p.114 より引用)

ちょいと意味深長な文章ですが、イザベラは明治政府の中央集権ぶりが予想以上に浸透していることに驚いているようでした。地域と地域を結ぶ公共交通機関がほぼ存在しない状況で、コミュニティの閉鎖性は今以上に高かった筈ですが、その割には「政府のお達し」がきちんと行き届いていた……ということになりますね。

日本の均一性

イザベラがこの「均一性」を「興味深いもの」と見做したのは、以下のバックグラウンドを認識していたからのようです。

私は今、つい最近まで別個の国で必ずしも友好関係でなかった、幾つかの地域を通って旅を続けてきましたが、それらは公国(藩)、つまりそれぞれが独立した領邦システムだったのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺中央公論事業出版 p.114 より引用)

江戸時代には無数の藩があり、それぞれが独立採算で領内の経営に勤しんでいたのでしたね。無数の「国」が併存する連邦だったのが、わずか十数年でトップダウン型の国家に変貌しようとしているわけで、これはイザベラならずとも注意を引く流れだったと言えるでしょう。

もっとも、この「日本の急速なトップダウン化」は「奥地紀行」から見ると明らかにオフトピックで、おそらくイザベラのスポンサー向けの内容だったと思われるので、「普及版」ではバッサリとカットされています。

イザベラは各地の「藩」における気候の違いや言葉(方言)の違いなどを挙げた上で、寺や家の様式が(構造には違いがあるものの)本質的には同一であることを指摘します。

しかしどこに行っても、寺や家は事実上、全く同じ様式で建てられています。大きなものや、小さいもの、木壁、土壁、草葺屋根、木の皮(檜皮葺き)、こけら葺き、他の変化もありますが、住宅内部の飾りつけはいつも同じそれと認知できる特徴があります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.114 より引用)

また農耕の面でも土壌や気候によって違いがあるとしつつ、基本的な作法はどこも変わらないと指摘しています。地域的な閉鎖性から独自性を醸し出すことも可能だった筈の社会的な規範や価値観も実際には共有されていて、どの藩においても大きな違いが見られなかった点に注意すべし……というのがイザベラのスポンサー向けのレポートの骨子だったようですね。

これらのことを遥かに凌いで、すべての段階で社会を統治する不文律は実際に同じなのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.115 より引用)

イザベラは「日本の均一性」の具体例を次のように挙げていました。

 秋田の下級の労働者は田舎者かもしれませんが、東京の下層階級労働者の他人との交際における堅苦しい礼儀作法と同じだし、白沢の独身女性は、日光でそうであったように、落ち着いた感じがして、品位があり、礼儀正しい。子どもたちは、同じ玩具で同じ遊びをし、同年齢の子どもたちは同様の人生の公式の段階を踏む。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.115 より引用)

これは極々当たり前のことのようにも思えますし、ある意味現代の日本においても同じである、あるいはもっと酷くなっているようにも思えます。イザベラは自身が目にした「現状」が、急速に中央集権国家に移行しつつある日本の現状を捉えたと考えていたのか、それとも生来の「右へ倣え」資質(民族性?)が発現したものと見ていたのかが謎だな……と思ったのですが、その問いへの答もちゃんと用意されていました。

みな一様に、同一社会秩序の厳格な足かせにより縛られている。これは伝統的な慣習で、それが時には弊害となることもあり、時には非常にうまく作用することもあるのですが、それが、西洋の礼儀や文化のゆがんだ真似に取って代わられるのを見たら何であれ、私はきっと悲しくなるに違いないでしょう。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.115 より引用)

あー、やはり「同調圧力大好き日本人」は「伝統的な慣習」によって作られたと考えていたようですね。ちょっと不思議なのが、イザベラはこのことを比較的肯定的に見ていたように思えるところです。日本人は「自分の頭で考えて自分で判断する」というあたり前のことが「ちゃんと出来ない」のは誰もが知るところですが、こういった能力の致命的な欠如は、「奴隷」として扱うにはこの上なく有用なんですよね。

晩の仕事

イザベラは、日本の「庶民」の「国民性」について、次のように続けます。ここから先は「普及版」でもカットされなかった部分です。

 ここでは今夜も、他の幾千もの村々の場合と同じく、人々は仕事から帰宅し、食事をとり、煙草を吸い、子どもを見て楽しみ、背に負って歩きまわったり、子どもたちが遊ぶのを見ていたり、藁でみのを編んだりしている。彼らは、一般にどこでも、このように巧みに環境に適応し、金のかからぬ小さな工夫をして晩を過ごす。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.297 より引用)

子煩悩な庶民の暮らしぶりが描かれている……といったところでしょうか。「金のかからぬ小さな工夫」というのも、現代の日本にも通じるところがありそうな……。

《残念ながら》わが英国民は、おそらく他のどの国民よりも、このようなことをやっていない。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.297 より引用)

それはまぁ、そうなのかも知れないのですが、要は日本の庶民が「貧しい」ということなんじゃないかな、と。

英国の労働者階級の家庭では、往々にして口論があったり言うことをきかなかったりして、家庭は騒々しい場所となってしまうことが多いのだが、ここでは、そういう光景は見られない。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.297 より引用)

これは「自分で物事を考えて判断する」ということを「させない」日本の「伝統的な慣習」の結果、とも言えますよね。家の中では「俺の話を聞け~」と言っている「家父長」も、外では「偉い人」に対して卑屈なまでに頭を下げ続けるという、哀れな図式が当たり前のように存在します。「長いものには巻かれろ」という思想?が徹頭徹尾押し付けられる、極端に封建的な世界であるが故の「見かけ上の平和」でしかありません。

日本は「生存権」すら「偉い人のお情けで与えられたもの」と考えかねない「後進国」なんですよね。「目上の人の言うことを黙って聞いていたらええんや」というメンタリティからは、何も生まれないと思うんですが……。

北へ旅するにつれて、宗教的色彩は薄れてくる。信仰心が少しでもあるとするならば、それは主としてお守りや迷信を信じていることである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.297 より引用)

これはちょっと興味深い指摘ですね。イザベラは秋田の大館市郊外の白沢まで来て「日本の均一性」を実感しつつ、一方で「宗教的色彩は薄れてくる」と感じていたということになります。

これは「価値観」や「社会規範」と「宗教」の相関がそれほど大きくないということを意味するほか、「建物」のスタイルなどの外見的なものは「日本的」なものが受け入れられていた一方で、信仰の面ではまだまだ「日本的」なものが相容れない存在だった可能性を想起させます。

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