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「日本奥地紀行」を読む (160) 白沢~矢立峠(大館市) (1878/7/31(水))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十八信」(初版では「第三十三信」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

滝のような雨

普及版の「第二十八信」には「碇ガ関にて 八月二日」とありますが、イザベラはこの中で「大雨のため二日もここに足どめされている」と記しているので、7/31(火) の早朝に白沢で日食を見た後、その日のうちに矢立峠を越えて碇ヶ関まで移動した……と考えられます。

イザベラは碇ヶ関でまたしても足止めを食らったので、この数日の出来事を振り返る時間ができたようです。

 前途の困難についての予言は的中した。六日五晩の間雨はやまない。一時に数時間やむことはあったが、十三時間前から、白沢で皆既食にあったときのように土砂降りとなっている。このような豪雨は、私が赤道で一度に数分間続くのを見たことがあるだけである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行平凡社 p.301 より引用)

「バケツをひっくり返したような雨」という慣用句がありますが、まさにそんな感じの雨だったのでしょうか。イザベラは熱帯でのスコールと比較していますが、六日五晩の間ずっと断続的に降り続くというのは、さすがのイザベラも想定外だったのでしょうか。

イザベラは、全てが湿り黴を生す状況を嘆きながら、次のように続けていました。

それでもまだ雨は降る。道路も橋も、水田も樹木も、山腹もみな同じように津軽ツガル海峡の方に向かってめちゃめちゃに押し流されている。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.301 より引用)

前述の通り、イザベラは 7/31(火) に白沢(大館市)を出発し、国道 7 号で 20 km ほどの距離を移動して碇ヶ関に入っていました。イザベラが実際に移動したのは「羽州街道」ですが、現在の国道 7 号と大枠では似たルートを通っていたと考えられます。

碇ヶ関青森県なので、イザベラの言う通り、川の水は津軽海峡に向かって流れます。割と重要な事実の筈ですが、イザベラはサラッとその事実を流してしまっていますね。もっとも「海峡はじれったくなるほどすぐ近くである」とも記していて(実際には東北自動車道で 60 km ほど離れている)、心のなかではガッツポーズを決めていたのかもしれません。

素朴な人々は忘れてしまった川や山の神々、太陽や月の神、あらゆる在天の神々に願って、「むやみに降る雨や洪水の災害」から救い給えと祈っている。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.301 より引用)

打つ手が極まった時に「神頼み」というのは、今も昔も変わらない……ということでしょうか。

不愉快な抑留

イザベラは本州脱出まであと少し……という手応えを既に得ているので、ここに来て何度も足止めを食らうことに憤りを感じていたようです。ただ、逸る自らを戒めるかのように、次のように記していました。

私は、終日横になって休めるだけでも結構なことだと思っている。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行平凡社 p.301 より引用)

随分と物わかりが良くなった……というか、何かの悟りを開いたかのようにも思われますね。

「心は、健康な状態であるときには、越えがたき困難を前にして静かに休息する。ちょうど確かめられた真実の前にあるごとく」という言葉があるが、私も今は旅を続けることができないから、いらいらするのはやめにして、やむをえない抑留の美点を大きく考えてみたくなってくる。あなたも私の環境の中に置かれたらそう思うであろう。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.301-302 より引用)

謎の名言っぽいものが引用?されていますが、原文では次のようなものでした。

“the mind, when in a healthy state, reposes as quietly before an insurmountable difficulty as before an ascertained truth,”
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)

いやいや、本当に何か悟りを開いちゃってますね……。

洪水による惨害

ここに来て何故か悟りを開いてしまったイザベラは、ここ数日の悲惨な旅を振り返ります。白沢から碇ヶ関までの旅は「ひどく苦痛であった」としつつ「私の旅行の中で最も興味あるものの一つ」とし、次のように続けていました。

私は前にハワイで火の力の恐ろしさを知ったが、今私は、日本で水の力の恐ろしさを少なからず知るようになった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行平凡社 p.302 より引用)

イザベラは「晴れそうだったので」と前置きをして、二頭の馬と三人の男を連れて白沢を正午に出発していました。数日ぶりの移動でイザベラのテンションも上がっていたようですが……

美しい景色であった。自然そのままの谷間で、多くの山の峰が側面から谷間に下りてきて、暗いピラミッド型の杉が茂り、実に絵のような眺めであった。これこそ真に日本の美観である。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.302 より引用)

ところが、イザベラ一行はすぐに現実に引き戻されます。

五つの浅瀬は深くなっていて流れが速かった。坂の下り口がすべて水に流されたので、渡る場所に行き着くことが難しかった。土手は険しくなっていて、馬子がつるはしで平らに崩さなければならなかった。歩いて渡る浅瀬そのものがなくなっていた。淵となっていたところが浅瀬となり、浅瀬だったところが深みとなっていた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.302 より引用)

まぁ、数日間降り続いた雨は山林がしっかりと保水しつつ、数日間かけてしっかりと流れ出る筈なので、浅瀬が消え失せているのも当然の結果でしょう。「雨が上がれば即移動」という考え方は危なっかしいこと極まりないのですが、それだけ様々な面で余裕を失っていた、ということでしょうか。

イザベラは「道路や小さな橋はすべてなくなっていた」とも記しています。そりゃあそうだろう……という話ですが、イザベラは行く先々で「道は無い」「通れない」「無理だからやめとけ」と事あるごとに言われ、その度に無理を通して局面を打開してきたという良からぬ実績があるだけに、「行けばなんとかなる」と思い込んでいた節もありそうな……。

大きな丸太が川を流れてきて、その数も多く、猛烈な勢いであったので、私たちはある場所で半時間ほど待って安全に渡ることにした。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.302 より引用)

ただ、結果的には、イザベラは長雨による土砂災害の中、白沢から碇ヶ関までの県境越えを成功させちゃっているのも事実で……。スタッフに恵まれたというのもあるかもしれませんが、イザベラ姐さんの「勘」が絶妙だった、とも言えそうで……。

矢立峠

イザベラ姐さんの「旅の振り返り」は、ますますリポビタン D 化が進行し……

 五マイル行くと、馬が通れなくなった。馬子の二人が荷物を運び、私たちは出発した。膝まで泥につかりながら、水の中を渡り、山腹をよじ登って行った。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行平凡社 p.303 より引用)

相変わらず人使いが荒いなぁ……という印象ですが、良く考えるとここまでは馬で移動できていた……ということですよね。イザベラはここで持ち前の運を少しばかり消費したのか……

幸運にも、このように疲労させる歩行は長くなかった。杉の深い森におおわれた暗くて高い山の峰が私たちの前に立ちふさがってくると、私たちは新しい道路に出た。馬車も通れる広い道路で、りっぱな橋を渡って二つの峡谷を横切ると、すばらしい森の奥へ入って行く。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)

もしかしてイザベラは道を間違えたのか……とも思ったのですが、分水嶺に近づくにつれ川の水量は少なくなるので、矢立峠の近くは被害がそれほど大きなものでは無かった、ということかもしれません。

ゆるやかな勾配の長いジグザグ道を登って矢立ヤダテ峠に出る。この頂上にはりっぱな方尖塔オベリスクがある。これは砂岩を深く切ったもので、秋田県青森県の県境を示す。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)

県境に砂岩の尖塔とは、なかなか洒落たものを置いていたのですね。

これは日本にしてはすばらしい道路である。傾斜をうまくゆるやかにして築き上げ、旅行者が休息するための丸太の腰掛けも便利な間隔で置いてある。この道路を造るために発破をかけたり勾配をゆるやかにしたり、苦労の多い士木工事だったろうが、それも長さ四マイルだけで、両端からはあわれな馬道となっている。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)

矢立峠は、現在は国道 7 号が通っていますが、トンネルも無くカーブも緩やかな峠です。標高は 267 m で、かつては奥羽本線のトンネルも道路沿いにありましたが、1970(昭和 45)年に全長 3,180 m の新しい「矢立トンネル」に切り替えられています。

イザベラは峠にたどり着くまでの苦労もあったのかもしれませんが、この矢立峠には随分と感銘を受けたようで……

私は他の人々を残して、一人で峠の頂上まで歩いて行き、反対側に下りた。そこはあざやかな桃色と緑色の岩石に発破をかけて造った道路で、水が滴り落ちて光り輝いて見えた。私は日本で今まで見たどの峠よりもこの峠を賞め讃えたい。光り輝く青空の下であるならば、もう一度この峠を見たいとさえ思う。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)

「もう一度この峠を見たい」とまで記していました。もっとも「光り輝く青空の下であるならば」という付帯条件がついていますが……(汗)。

この峠は、(アルプス山中の)ブルーニッヒ峠の最もすばらしいところとだいぶ似ており、ロッキー山脈の中のいくつかの峠を思わせるところがある。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303-304 より引用)

「ブルーニッヒ峠」というのは、おそらくスイスのマイリンゲンの北に位置する峠のことで、Google マップで「Brünigpass」で検索すると詳細が確認できます。

イザベラは長雨で足止めを喰らい続ける中、強行突破に成功した矢立峠の思い出が必要以上に美化されていたのか、大絶賛を続けていました。

樹木はその香ばしい匂いをふんだんにあたり一面に漂わせ、多くの峡谷や凹地の深い日蔭で、明るく輝く山間の急流は躍りながら流れ、そのとどろき響きわたる低音バスは、軽快な谷間の小川の音楽的な高音トレブルを消していた。旅人が草鞋わらじを踏みながらやってきて、この静寂を破るようなこともなかった。鳥のさえずる声もなければ、虫のすだく音もなかった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.304 より引用)

台風一過の青空とはちょっと違うのかもしれませんが、「嵐の前の静けさ」ならぬ「嵐の後の静けさ」に通じるものがありそうですね。

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