Bojan International

旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

紀勢本線各駅停車 (2) 「紀三井寺・黒江」

「あなたの街の専用線跡」の前を通過すると、なんか下り線との間隔が中途半端に広くなり……

そしてまた狭くなり……。下り線の向こう側には空き地が見えますが、これは貨物用の線路の跡なんでしょうか。下り線との間隔が変動した理由は皆目不明ですが、2 面 3 線のいわゆる「国鉄型配線」を 2 面 2 線の「相対式ホーム」に改造した、あたりでしょうか。

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紀勢本線各駅停車 (1) 「和歌山・宮前」

和歌山駅の 5 番線に周参見すさみを 7:17 に出発した 348M が入線してきました(10:09 着)。この車輌は僅か 7 分の折り返しで 341M 御坊行きになるようです。随分と現代的なルックスの車輌で、なかなか格好いいですね。

きのくに線」こと「紀勢線」(紀勢本線)は、このあたりでは一時間に二本の運転のようです(あと特急「くろしお」が一時間に一本程度)。

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紀勢本線各駅停車 (プロローグ 4) 「紀伊中ノ島・和歌山」

和歌山行き「紀州路快速」(という名前の各駅停車)は紀ノ川を渡りました。国道 24 号をオーバークロスすると……

紀伊中ノ島駅(JR-R53)

紀伊中ノ島駅」に到着です。築堤の上にある駅で、ホームの下部はスッカスカですが、1932 年に「阪和中ノ島駅」として開業した駅です。

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紀勢本線各駅停車 (プロローグ 3) 「紀伊・六十谷」

「プロローグ」で何回続けるのか……という点が予断を許さない状況になってきましたが、次の停車駅である「紀伊駅」が近づいてきました。第一種踏切ですが、これは随分と狭そうですね。軽自動車でギリギリかと思いましたが、「この踏切は車幅 1.3 M を越える車は通れません」とのこと。2 輪までは OK と言うことでしょうか。

紀伊駅(JR-R51)

上りの待避線が見えてきました。間もなく紀伊駅ですね。

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紀勢本線各駅停車 (プロローグ 2) 「和泉鳥取・山中渓」

和歌山行きの「紀州路快速」は和泉砂川を出発しました。車窓に畑が目立つようになってきましたね。

……と思ったら分譲中?の住宅地が。大阪の中心部まではそこそこ距離がある筈ですが、お手頃価格で良い住環境を得られるということなんでしょうか。

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北海道のアイヌ語地名 (937) 「杵端辺・古梅・徳志辺」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

杵端辺(きねたんべ)

kene-tay-an-pe
ハンノキ・林・ある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)

美幌町南東部の旧地名……だと思っていたのですが、「杵端辺きねたんべ」という名前の三角点が現存していました。しかも同名の二等三角点と三等三角点がある(位置は異なる)というお買い得ぶりです。

1872 年から 1915 年まで存在した「杵端辺村」は「美幌村」の元となった村の一つで、当時は「けねたんべ」と読ませていたとのこと。なお、美幌村に合併した後は「大字杵端辺」でしたが、これは 1937 年に廃止されていました。ただ三角点の名前として現在もひっそりと生き延びている、ということのようです。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ケ子タンヘ」という川が描かれていました。この川については戊午日誌「安加武留宇智之誌」にも次のように記されていました。

 扨またしばし過て
     ケ子タンベ
 右の方小川、此両岸赤楊多きによって号るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.343-344 より引用)

明治時代の地形図には「ケ子タアンペ」という名前の川が描かれていました。この川は美幌町古梅ふるうめの北北西あたりで美幌川に合流していたようで、大正から昭和初期にかけての陸軍図に「杵端邊」とある所よりも随分と南側を流れています。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 杵端辺(けねたんべ)
 音が悪いと嫌われ今はなくなったが、美幌から美幌峠へ行く途中の地名で、五万分図にはのっている。

音が悪い……ですか。「難読だ」というのであればなんとなく理解できるんですが……。

アイヌ語ではケネ・タイ・ウン・ぺで、はんのき林のある川という何でもない名である。

ふむふむ。kene-tay-an-pe で「ハンノキ・林・ある・もの(川)」と考えて良さそうですね。確かに「何でもない名」ですが、この小さな川の名前が村名にまで成長して、そしてあっさりと捨てられたというのはちょっと不思議な感じがします。

古梅(ふるうめ)

hure-mem
赤い・泉池
(典拠あり、類型あり)

美幌町南東部、「杵端辺きねたんべ」の南に位置する地名です。ここもかつての「古梅村」で、「美幌村」の元となった村の一つです。ただ「杵端辺」と異なり、こちらは現行地名として健在で、東を流れる「石切川」には「古梅ダム」もあります。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 古梅(ふるうめ)
 美幌町で僅か残っているアイヌ語地名の一つ。美幌峠にかかる麓の部落。
更科源蔵更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.288 より引用)

美幌町で僅か残っている」(原文ママ)というのは実にその通りで、アイヌ語の地名・川名が軒並み改められたようで、現存するものはとても少ないんですよね。

ここにあった湧壺についた名で、フレ・メム(赤い湧水池) のなまったもの。
更科源蔵更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.288 より引用)

あー。確かに「東西蝦夷山川地理取調図」にも「フウレメム」という泉池が描かれています。永田地名解にも次のように記されていました。

Hūre mem  フーレ メㇺ  赤池 此地ノ「アイヌ」ノ音ハ一度聞ケバ「フルメン」ト發音スルガ如クナレトモママ聞ケバ「フーレメム」ナリ此水赤クシテ飲ム能ハズ故ニ名ク安政帳「フレメム」ニ作ル文化帳ニ據ルトアリ○古梅村ト稱ス

久しぶりに「怒涛の脚注」の登場です。この手の「脚注の爆発」が発生するのは、だいたい本文の内容を全力で補強している時が多いのですが、今回も「『フルメン』と聞こえるけど『フーレメム』なんだぜぇ」ということのようです。

明治時代の地形図には、現在の「石切川」が美幌川と合流するあたりの南に「ポンメム」という川があり、そのすぐ南に「フーレメム」という川が描かれていました(いずれも美幌川の東支流)。国道 243 号の西側にチェーン脱着場がありますが、ちょうどこのあたりに「フーレメム」があったと推定されます。

「フーレメム」は hure-mem で「赤い・泉池」と見て間違いないかと思います。鉄分が多かったのか、あるいは赤土などが混ざっていたのか、赤くて飲むに堪えない湧き水の出るところだったようです。

徳志辺(とくしべ)

tukusis-ot-pe
アメマス・多くいる・もの(川)
(典拠あり、類型あり)

「石切川」のダム湖である「古梅ダム」の西にある山の、頂上付近にある四等三角点の名前です(標高 273.3 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トクシヽヲツヘ」という川が描かれていました。また明治時代の地形図にも、現在の「石切川」の位置に「トクシシユオツペ」と描かれていました。

戊午日誌「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

 扨しばし過て両岸椴原追々有るよし也。左りの方相応の川有。
     トクシヽヲツベ
 と云。此川あめます多きよりして号。其水源トイトクシベツノボリと云より来る。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.344 より引用)

どうやら tukusis-ot-pe で「アメマス・多くいる・もの(川)」と解釈できそうな感じですね。伊達市(旧・大滝村)を流れる「徳舜瞥川」が tukusis-un-pet だと考えられるので、同系の地名と見て良いでしょうか。

余談ですが

「トクシベ」であれば tuk-us-pe で「小山・ついている・もの(川)」と解釈することも一応可能かと思われますが、「トクシシ」であれば素直に tukusis と見て良いかと思います。

あと戊午日誌の「トイトクシベツノボリ」については現在の「藻琴山」のことらしく、to-etok-us-pet-nupuri と考えられるのですが、この etok-us-pet が「トクシベ」に化けた可能性については……念のため留保させてください(tukusis 自体が転訛の産物である可能性もゼロではないので)。

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北海道のアイヌ語地名 (936) 「魚無川・庭庶無若・登栄川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

魚無川(うおなし──)

chep-sak-onne-nay
魚・持たない・老いた・川
(典拠あり、類型あり)

美幌町には「網走川」とその支流の「美幌川」が流れていて、美幌川網走川に合流する地点の南側に市街地が広がっています。魚無川は美幌川の西支流で、美幌川網走川の間を流れているので、言い方を変えれば市街地のど真ん中を流れていることになります(町役場のすぐ東側を流れています)。北海道に限らず日本各地にありそうな川名ですが、ググる美幌町の「魚無川」がトップヒットするようです。

もしかして:実は珍しい

明治時代の地形図には「チエプシヤクオン子ナイ」という名前で描かれていました。改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を確認してみると、確かに「ヒホロ」が網走川に合流する手前に「チエフシヤクオン子ナイ」という川が描かれています。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 魚無川(うおなしがわ) 相生線に沿って流れる小川。美幌川の小支流。
NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.448 より引用)

あっ。そう言えば美幌から北見相生まで「国鉄相生線」が走っていたんでしたね。相生線の線路は美幌駅から南に延びていたわけですが、市街地のど真ん中を南に抜けていたようで、途中から「魚無川」の西隣を通っていたのでした。

アイヌ語「チェプ・サㇰ・オンネ・ナイ」(魚のいない年寄川)を訳したもの。
NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.448 より引用)

はい。chep-sak-onne-nay で「魚・持たない・老いた・川」と見て良さそうですね。この手の onne-nay は「年老いた川」であり「親である川」でもあるのですが、元を辿れば「大きな川」だったり「長い川」だったりします。この chep-sak-onne-nay も「魚のいない長い川」という解釈が、より具体的かもしれません。

殆どの場合、「老いた川」は「涸れ川」を意味するものでは無いことに注意が必要です。

チェプウンオン子ナイ

なお、「魚無川」の東に「駒生川」という川が流れていますが、この川はかつて「チェプウンオン子ナイ」と呼ばれていたようです。chep-un-onne-nay は「魚・そこに入る・老いた・川」で、魚無川とは違って魚のいる「長い川」と認識されていたことになりそうです。「駒生」という名前は馬産に由来するようですが、「オショロコマ」という魚との関連も考えたくなります(考え過ぎ)。

庭庶無若(てしむわっか)

ni-us-yam-wakka?
樹木・多くある・冷たい・水
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

美幌川を南に遡ると、美幌町福住のあたりで「弥生川」という西支流が合流しています。合流点のすぐ西には標高 145.8 m の山があり、その頂上付近に「庭庶無若」という三等三角点があります。「庭庶無若」は「てしむわっか」と読むらしいのですが……なかなか凄い字を当てたものですね。

この「庭庶無若」こと「てしむわっか」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき地名が見当たりません。明治時代の地形図を見てみると……三角点の対岸あたりに「チエプワタラ」という地名(だと思う)が描かれていました。また、少し南の東岸には「ウンヤㇺワㇰカ」という地名(だと思う)が描かれていました。

知里さんの「網走郡アイヌ語地名解」には、次のような記録が見つかりました。

(295) ニウシワッカ(Niushi-wakka)(左岸) ニ(木),ウㇱ(多く生えている),イ(所),ワッカ(水)。「林の中にある冷水」を云う。
知里真志保知里真志保著作集 3網走郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.302 より引用)

網走郡アイヌ語地名解」の「ニウシワッカ」の項の直前は「(294) チェプンメム」なのですが、明治時代の地形図でも「ウンヤㇺワッカ」のすぐ北に「チエプウンメム」という川が描かれているので、「ウンヤㇺワッカ」=「ニウシワッカ」と見て良さそうでしょうか。となると「ウンヤㇺワッカ」は「ニウシヤㇺワッカ」だった可能性も出てきます。ni-us-yam-wakka であれば「樹木・多くある・冷たい・水」となるでしょうか。

「ニウシヤㇺワッカ」の「ニウ」を縦書きにした際に「テ」に化けたとかで「テシヤㇺワッカ」となり、これが「テシャムワッカ」となった後に「テシムワッカ」になった……とかでしょうか。

……あ。自分の馬鹿さ加減に気がついて頭を抱えていたのですが、「庭庶無若」は「てしむわっか」じゃなくて「にわしょむわっか」だったとしたら ni-us-yam-wakka そのままじゃないですか。何故気が付かなかったんだ……。

登栄川(といえ──)

{tuy-e}
{切る}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

謎の「庭庶無若」三角点の南を流れる「弥生川」を 1 km ほど遡ると、南から「登栄川」が合流しています。明治時代の地形図には「ト゚イエ」とあるので、どうやら「トゥイエ」だったっぽいですね。

永田地名解には次のように記されていました。

Tuye        ト゚イェ        潰裂川
Shiri tuye ushi  シリ ト゚イェ ウシ  潰裂シタル山(水ノタメ)

ふむふむ。地形図を見てみると、確かに弥生川が美幌川に注ぐあたりで山が大きく崩されています。なるほどねぇ~と思ったのですが、知里さんの「網走郡アイヌ語地名解」には別の見解が記されていました。

(289) ツ゚イ(Tui) ツ゚エトコクシナイの簡称。ツ゚(山の走り根),エトコ(の先),クㇱ(通る),ナイ(川),すなわち,奥から出て来る山の走り根を横ぎつて行く川の義。それをツ゚エとだけ云い,それが更にツ゚イに訛つたもの。

知里さんは「ツ゚イ」(トゥイ)が tu-etok-kus-nay の省略形だとしていますが、明治時代の地形図で既に「ト゚イエ」(トゥイエ)となっていることを考えると、ちょっと違和感が残ります。

ついでに言えば tu-etok-kus-nay を「奥から出てくる山の走り根を横切る川」とするのも若干もやもやするのですが、これは「走り根(縦に伸びた山の尾根)の先の向こう側の川」だとすれば、実際の地形にも即した解と言えそうな気もします。

「ルイー」と「ルツケイ」

明治時代の地形図で既に「ト゚イエ」となっていたのであれば、松浦武四郎がどう記録していたかが俄然気になってきます。ということで戊午日誌「安加武留宇智之誌」を見てみたところ……

 またしばし上りて右のかた
     ル イ ー
 相応の川なり。またしばし過て右のかた
     ホンルイー
右小川過てしばし此辺極迂曲して其処をいき切して行よし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.343 より引用)

ここに来て突然のルイルイの登場には困惑を隠せませんが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「弥生川」と「登栄川」に相当する位置に「ルツケイ」と「ホンルイ」と描かれていました。

「マクンナイ」と「ルツケイ」の位置関係が実際と逆になっているようですが、このあたりは聞き書きと思われるので、その際にミスが入り込んだのでしょうか。

「ルツケイ」は rutke-i で「くずれた・所」と読めます。「トゥイエ」は {tuy-e} で「{切る}」ですが、tuy-i で「くずれる・所」と解釈することも可能でしょうか(若干怪しいですが)。ポイントとしては、「ルツケイ」も「ト゚イエ」も大枠で「崩れたところ」を意味するというところで、この川(あるいは河口付近の地形)は「崩れたところ」として認識されていた、と言えそうです。

知里さんの記録した to-etok-kus-nay も気になるところですが、ここまで見た限りでは「崩れたところ」説は無視できないように思えます。

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